地図・地誌類データを中心としたデータ/AI駆動型人文学研究のガイドライン(仮称)

第1版 候補1(候補版・非規範)

書誌情報

タイトル
地図・地誌類データを中心としたデータ/AI駆動型人文学研究のガイドライン(仮称)
著者
DHコンソーシアム(DiHuCo)
出版者
DiHuCo研究実践ハブ
第1版 候補1
状態
候補版(非規範)。引用には承認版を使ってください。
公開日
2026-09-17
URL
https://codh.rois.ac.jp/dihuco/dgs/guideline/candidates/1-1/

本版は候補版であり、規範性を持たず、内容は予告なく変更されます。引用には承認版(DOI付き)をお使いください。

本版も承認版と同じく CC BY-NC 4.0 と互換の利用条件で提供されます。版の状態(作業版・候補版・承認版)によって、利用条件が変わることはありません。

はじめに

本ガイドラインは、デジタル・ヒューマニティーズ・コンソーシアム(DiHuCo)の研究実践ハブが作成する。焦点は実践知にある —— 研究においてどのようにデータを作り、どのように扱い、何を問うたか。

扱う範囲

地理情報と空間、地域を記した地誌資料、そして画像と視覚資料を主な対象とする。それらをデータとして扱うための作法、AI との協働、データを公開する実務、そして研究が社会と接する場面を収める。

扱わない範囲

テキストそのものの符号化は、DiHuCo 研究基盤ハブが公開する東アジア/日本のテキストデータ構造化のためのガイドラインが扱う。本ガイドラインはその分担の外側を担うため、TEI による符号化と学術編集版には立ち入らない。ただし画像に写った文字を読むこと —— 認識、字形の分析、判読して活字に起こす翻刻 —— は本ガイドラインが扱う。同ガイドラインの範囲と一部重なるが、画像から文字を起こすことは本ガイドラインの中核にあるため、重複を許容する。

テキストの計量的な分析 —— テキストマイニング、トピックモデル、文体分析 —— も範囲外である。本ガイドラインの対象が図像的・空間的な資料であり、素材とした講演にこの領域の実践知がないためである。ただし規模を変えて見るという見方、すなわち遠読は、画像と空間に適用する形で扱う。

このほか、ネットワーク分析、画面の設計と利用者試験、音声と映像、そして自分で機材を飛ばして行う撮影と測量は扱わない。衛星画像や過去の空中写真のように、すでにアーカイブとして存在するデータを使うことは扱う。

外に良い規範があるので参照で足りるもの

扱わない理由がもう一種類ある —— 本ガイドラインが書くより、既にある文書を指した方がよいものである。

資料の撮影とデジタル化(解像度・色管理・照明・撮影記録)は、国文学研究資料館の日本語の歴史的典籍のデジタル化に関するマニュアルが、撮影方法を詳細に示している。本ガイドラインは節を設けず、そちらを参照する。

FAIR 原則と研究データ管理の一般論は、ALLEA のSustainable and FAIR Data Sharing in the Humanitiesと DARIAH の資料がある。本ガイドラインは、地理・画像・三次元のデータに固有の判断に絞る。

保存の理論的枠組み(OAIS 参照モデル、InterPARES)も概念の紹介にとどめる。

扱うべき範囲のうち、まだ書けていない領域については付録に一覧を置いた。

この文書の作り方

本ガイドラインの本文は、実践知に関する講演や記事を素材とし、研究実践ハブが指定した構造にしたがって AI が生成したものである。本文には根拠となる記事へのリンクを置き、記事からはその出典となる講演資料やリンク先をたどることができる。このようにテキストの由来を検証できる仕組みを用意することで、AI の柔軟性と専門家の信頼性とを統合することを目的とする。

1 地理情報と空間

地図・地誌・地名をはじめとする地理情報を、研究のためのデータとしてどう作り、どう扱うかをまとめる。

1.1 空間の表し方

位置を数値で表すとは、地球という球面上の点に座標という識別子を与えることである。その識別子の選び方と、球面を平面に変換する際の取り決めが、以後のすべての空間分析の性質を規定する。

緯度経度という標準と、その限界

位置を表す最も標準的な方式は緯度経度(latitude and longitude)で、スマートフォンの地図から衛星測位まで広く使われる [UC-009 §地理情報とは何か]。しかし緯度経度には扱いにくさがある。二つの座標値を組み合わせる必要があること、そして何桁まで精度の裏付けがあるかが一見して分からないことだ。プログラムが返す小数点以下15桁ほどの数値のうち、実際に意味を持つのは小数点以下6桁程度で、これがおよそ1メートルの精度に相当する [UC-009 §座標を指定するその他の方式]。記録された緯度経度が何桁まで有効かを確認せずに用いると、見かけの精度と実際の精度のあいだに齟齬が生じる。

この限界を補うために、グリッドに分割してIDを与える方式も考案されている。UberのH3は地球を六角形に分割し、各セルにIDを付与する。六角形を採用した理由は、隣り合うセルへの距離がすべて等しいという幾何学的な性質にある。一般的にグリッドの分割には三角形・四角形・六角形があるが、四角形では縦横と斜めで隣接グリッドへの距離が異なるのに対し、H3が用いる六角形はこの問題が生じない [UC-009 §座標を指定するその他の方式]。また、ズームインするほどIDが長くなる階層構造を持ち、IDそのものが解像度の情報を含む点も特徴的だ。三単語の組み合わせで位置を表すwhat3wordsも考案されているが、実際にはあまり普及していないとの評価がある [UC-009 §座標を指定するその他の方式]。

球面を平面に写す際の決断——地図投影法

地球全体を表示しようとすれば、三次元の球面を二次元の平面に写す操作が必要になる。球面を平面に押し込めるとどこかが必ず歪むため、長さ・面積・角度・形のすべてを同時に保存することはできない。投影法とは「何を捨てて何を保存するか」の選択であり、これまでに100種類以上の投影法が提案されてきた [UC-009 §地図投影法]。

保存の対象によって投影法の性格は分かれる。正角図法(conformal projection)は角度を保存し、正積図法(equal-area projection)は面積を、正距図法(equidistant projection)は中心から各点への距離を保存する。正距図法は、ある都市から各地までの距離を正しく示す航空路線図などに使われる [UC-009 §地図投影法]。

広く知られるメルカトル図法(Mercator)は、緯度と経度が直交する見やすい格子を作るが、極に近づくほど面積が拡大し、極域を描けない。これを改良したUTM(Universal Transverse Mercator、ユニバーサル横メルカトル図法)は、地球を経度6度ずつ60のゾーンに分割し、各ゾーンの中央子午線からの距離をx座標、赤道からの距離をy座標として定義することで、全体の歪みを最小化している [UC-009 §地図投影法]。

投影法を一つ選ぶことは、何を優先するかを決めると同時に、その他の幾何学的性質を犠牲にするという決定でもある。異なる投影法で作られたデータを重ね合わせる際には、この違いが誤差の源になる。

測地系——座標値の意味を決める基準

投影法と並んで重要な取り決めが測地系(geodetic system)で、地球の中心と形を定義する枠組みである。同じ場所でも基準の取り方によって座標値が変わるため、どの基準を使っているかを明示することが欠かせない [UC-009 §測地系と高さの基準]。

地球は完全な球ではなく、自転によって赤道方向にわずかに潰れた楕円体として近似される。かつて測地系は国ごとに異なり、日本も2000年ごろまで独自の測地系を用いていた。GPSの普及に伴い世界測地系WGS84(World Geodetic System 1984)が標準となり、日本も2000年に移行した。このとき全国の緯度経度値が変わり、古い地図を使ったカーナビゲーションで位置がずれるといった事例が生じた [UC-009 §測地系と地球の形]。異なる時期に作られたデータを統合する際には、どの測地系に基づくかを確認する必要がある。

高さの基準はさらに複雑で、複数の系が並立している。GPSが与える高度は基準楕円体の表面からの高さである。一方、日本で伝統的に使われてきた高さは、東京湾の平均海水面を基準とする。この平均海水面は、重力が釣り合う水面であるジオイド(geoid)面に対応するが、地下の岩石密度の不均一などによって重力の強さが場所ごとに異なるため、ジオイド面は不規則な形になる。そのためGPSが示す高さと海抜による高さは一致せず、精度が求められる場面では両者の差を補正する必要がある [UC-009 §高さは何を基準に測るか]。

空間を索引する——R-treeと空間検索

座標と投影法と測地系が決まれば、空間オブジェクトを格納し検索する仕組みが問題になる。対象が少なければ一件ずつ調べるリニアスキャンで足りるが、対象が100万、1000万件になるとそれは現実的でなく、オブジェクトをインデックス化するアルゴリズムが必要になる [UC-009 §空間検索を高速化する仕組み]。

1984年に提案されたR-tree(R木)はその代表的な構造で、大きな矩形から順に内側の小さな矩形へとたどることで、すべてのオブジェクトを調べることなく検索を完了できる [UC-009 §空間検索を高速化する仕組み]。

空間検索の典型的な操作には二種類ある。「ある領域に含まれるオブジェクトを探す」containsと、「ある地点から一定距離以内のオブジェクトを探す」withinで、後者はバッファリング(buffering)によって距離範囲を領域に変換したうえでcontains検索と組み合わせて実現する [UC-009 §空間検索を高速化する仕組み]。点・線・ポリゴンのあいだには、交わる・接する・含む・重なるといった空間関係が定義されており、これらを計算するライブラリとしてC/C++で実装されたGEOSが広く使われる [UC-009 §空間的な関係と操作]。Google Mapsのような地理情報サービスも、こうしたアルゴリズムによって空間検索を支えている [UC-009 §空間検索を高速化する仕組み]。

なお、地理空間上の座標と地名との対応づけについては「地名という接点」を、空間境界の時間的変化については「時間をもつ空間」を参照されたい。

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1.2 地名という接点

地名は人間が位置を言葉で指し示すとき自然に使う語彙でありながら、情報として扱うには座標と識別子の両方を持つ実体として定義し直す必要がある。この定義を明確にすることで、文書の中の記述と地図上の位置をつなぐ経路が開ける。

情報空間・地理空間・つなぐ空間

地理に関わる情報を整理する枠組みとして、情報空間地理空間つなぐ空間の三層が提示されている [UC-011 §3. 「どこ」を特定する——情報空間・地理空間・つなぐ空間]。情報空間はテキストや画像など「ある場所に関する資料・説明文」のデータ群であり、地理空間は点やポリゴン・ピクセルといった幾何学的な構造を持ち地球上の場所に対応する地図のデータ群である。この二つをつなぐ空間に立つのがトポニム(地名)で、座標(地図側)と識別子(資料側)を併せ持つことでつなぎ役を果たす [UC-011 §3. 「どこ」を特定する——情報空間・地理空間・つなぐ空間]。同じ枠組みをより端的に言えば、地名エンティティに識別子を付与すれば情報空間へ、座標を付与すれば地理空間へとつながる [UC-010 §情報・地理・つなぐ──三つの空間のモデル]。

日常では「東京にいる」という地名で位置を伝えれば通じるが、計算処理では緯度経度が必要になる [UC-009 §地理情報とは何か]。地名がその橋渡しをする、というのがこの三層モデルの核心である。

地名辞書(ガゼッティア)の構造と識別子

地名を機械処理で扱えるようにした辞書をガゼッティア(地名辞典)と呼ぶ。ガゼッティアの各エントリは地名の文字列と位置情報を持ち、それが指し示す実体(エンティティ)に識別子(ID)が付与されることで、異なるアプリケーションやデータセット間のデータ統合が可能になる [UC-010 §歴史的ジオコーダーとGeoLOD──地名をつなぐ基盤]。

GeoLOD はこの識別子付与を担うサービスの一例で、地名をアップロードして GeoLOD ID を割り当てると、その識別子を介して異なるアプリ間でデータを統合できる [UC-010 §歴史的ジオコーダーとGeoLOD──地名をつなぐ基盤]。識別子付与にあたっては「何を同じエンティティとみなすか」という基準が問題になる。たとえば「東京」というエンティティが指すものは、東京市15区・35区・現在の23区・東京府・東京都で異なり、どこを同一エンティティとみなすかは、あらかじめ基準を決める必要がある [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。識別子の設計と引用の仕組み一般については「識別子とデータ引用」を参照。

属性の付与では位置情報が特に重要で、どこを代表点として選ぶかという判断を伴う。名称の表記揺れや粒度の相違を吸収し、よみや基本統計を付与することも、典拠データとしての地名辞書には求められる [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。

『日本歴史地名大系』地名項目データセット

こうした典拠データの代表例が、『日本歴史地名大系』地名項目データセット(80,502件)である [UC-012 §江戸近世村データセット]。平凡社が刊行した『日本歴史地名大系』の地名項目に位置情報を加えて機械可読化したもので、江戸時代の村までさかのぼる地名をCC BYライセンスで公開している。出版社との協力のもとで、事実に関する書き手に依存しない情報をオープンデータとして公開し、解釈に関わる記述部分は引き続き有料サービス(ジャパンナレッジ)でクローズドに提供する、という構造をとっている [UC-012 §江戸近世村データセット]。

このデータセットは住所ジオコーディングにも活用されている。データ中の地名には平成の大合併以前の住所が記録されているため、そのまま現代のジオコーダーに入れても位置が特定できない。そこで大合併以前の住所に対応する現代住所の候補を jageocoder を用いて探したうえでジオコーディングし、地名の推定緯度経度として地図上にマッピングする手法が取られている [UC-031 §現代の住所を対象とした応用事例]。自動化できる部分もある一方、手動で対応しなければならない部分も多く残り、あくまで限定的な変換だという評価が示されている [UC-031 §現代の住所を対象とした応用事例]。

ジオコーディング——住所と地名を位置に変換する

住所や地名を緯度経度に変換する処理をジオコーディングと呼ぶ。一見単純だが、日本の住所はとにかく複雑でパターン化が困難であり、関係者の間で「住所の闇」「住所の沼」と語られる難しさがある [UC-031 §日本の住所が抱える課題]。

日本の住所には地番住所(法務局が土地ごとに定めた番号)と住居表示住所(市町村が建物につけた番号)の二体系が併存し、後者は日本の一部にしか対応していない [UC-031 §住所とジオコーディングとは]。さらに表記揺れ・異体字・複数の表記法・部分的な省略が重なり、日本全体を網羅した住所データベースも現時点では存在しない [UC-031 §日本の住所が抱える課題]。

jageocoder はこうした課題に対応するオープンソースのPython製ジオコーダーで、住所データベースを差し替えられるという構造上の特徴を持つ [UC-031 §jageocoder——現代日本の住所ジオコーダー]。この差し替え機能が、後述する歴史的住所への拡張を可能にする鍵になっている。

歴史的住所のジオコーディング——表記揺れ・異体字の扱い

現代の住所を対象とするジオコーダーを過去の住所に対応させる際、最も手間がかかる工程が表記揺れと異体字への対応である。

旧東京市15区住所データセット(56,089件)はその代表的な実践で、1907年(明治40年)の東京市15区を対象とする [UC-031 §公開したデータセットとマップ]。構築にあたっては、GeoJSON形式の地理データ・jageocoder用の住所データ・表記揺れ辞書データの三種を用意した [UC-031 §旧東京市15区住所データセットの構築]。表記揺れ・異表記辞書は、実際の住所データ(関東大震災死亡者データ)から典型的な表記揺れを収集して作成したもので、個々の現実の住所表記をデータベース中のエントリにマッピングする対応を一件ずつ記述している [UC-031 §表記揺れ・異表記辞書]。

典型的なパターンとして、区と町名の間に入る地域名の省略がある。小石川区には「小日向」「小石川」「関口」のような共通の接頭辞を持つ町名が多く、この地域名は日常の会話では省略されがちなため、地域名を補うルールが多く求められた [UC-031 §表記揺れ・異表記辞書]。異体字については、頻出するものは jageocoder が標準で持つ地名異体字辞書に登録し、利用例が多くない異体字は表記揺れ辞書のなかで個別に処理する。辞書を拡張するか元データを修正するかは、どれだけ例外的かという観点から判断する微妙なバランスの上に成り立っている [UC-031 §異体字への対応]。

この枠組みは別の実践でも検証されている。関東大震災(1923年)の死亡者住所約3万8千件をジオコーディングした事例では、まず変換率を確認しながら表記揺れのパターンを収集して辞書に登録し、次に一意に決まらない町名を文脈から判断し、さらに誤字・入力ミスを元データ側で修正するという段階的なワークフローをたどった [UC-032 §住所データ修正のワークフロー]。この一連の作業を経て、全体の87%(3万3,467件)を地番レベルで変換することができた [UC-032 §変換精度の結果]。

辞書を拡張するか元データを修正するかという判断は、例外の頻度と性質に依存するため、どちらが正解かを事前に定めることは難しい。こうした判断の記録・共有が、担当者による見落としやばらつきを減らし、作業品質を安定させると見込まれている [UC-031 §歴史的ジオコーダーの作成手順と今後の展開]。データを整える際の方針設計一般については「データを整える」を参照。

歴史地名に固有の問題——同名異地・異名同地

歴史地名を扱うとき、現代地名の対応づけとは質の異なる問題が現れる。時代や地域によって「同じ名が違う場所を指す」ことも、「違う名が同じ場所を指す」こともある。

「横川町」が本所横川町・中ノ郷横川町・柳島横川町のいずれかを区別できないような、一意に決まらない町名の問題はその典型で、文脈から判断してどれとみなすかを決める作業が必要になる [UC-032 §大正時代の住所をジオコーディングする課題]。「東京」というエンティティが東京市15区・35区・現在の23区・東京府・東京都で異なるように、何を同一エンティティとみなすかという基準は事前に明示する必要があり、どちらの立場も取りうるため一律に決まるものではない [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。

また、1907年基準のデータセットを1923年の住所に適用した事例では、大正2年(1913年)に成立した芝区日出町のように、16年の差のあいだに生じた街区・住所の変化がエントリとして存在しない問題も見つかっている [UC-032 §変換の限界と今後の課題]。行政区域が時代とともに変わることとそのデータモデルについては「時間をもつ空間」を参照。

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1.3 時間をもつ空間

歴史地理情報の本質的な難しさは、空間そのものが時代とともに変わることにある。旧国・旧郡の境界、近世の村、藩、市区町村という単位は、いずれも固定された容器ではなく、合従・分割・廃置を繰り返してきた。この変化をデータとして扱うことが、通時的な分析の前提になる。

境界が動く単位をどう識別するか

行政区域の変遷をデータ化する際の基本的な問いは、「異なる時点の同じ単位をどう結びつけるか」である。歴史的行政区域データセットは、国土数値情報などを統合し、1920年以降の市区町村に網羅的にIDを付与した試みで、合計16,729件を識別している [UC-013 §歴史的行政区域データセット——市区町村IDの付与]。たとえば八王子市には「13201A1968」というIDが付与されており、合併によって境界が広がっても「概念としての八王子市」を一つのエンティティとして統合している [UC-013 §歴史的行政区域データセット——市区町村IDの付与]。同じ名称のものを同じエンティティとして扱うことで、ある資料に「八王子市」が現れたとき、そのIDに結びつけたうえで参照年次から境界の範囲を確認できる [UC-033 §地名のデータセット:行政区域から近世村へ]。

この識別の論理は単純ではない。「東京」が指すものは、東京府東京市の15区・35区・東京都特別区部(23区)と変遷しており、これらを「同じ東京」とみなすかはどちらの立場も取りうるため、あらかじめ基準を決める必要があると指摘されている [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。IDは答えを与えるのではなく、「どの基準でまとめたか」という判断をデータに記録する器として機能する。

現状のデータセットは1920年以降に網羅的な対応が取れているが、1919年から1889年(市制及び町村制の成立年)への遡及と、明治から江戸への遡及は未整備の課題として残されている。1889年から2006年については行政界変遷データベースが存在するものの、誤りが多く部分的な利用に限られるという [UC-013 §歴史的行政区域データセット——市区町村IDの付与]。

近世村という単位の難しさ

江戸時代の村は、近代の行政区域よりもさらに扱いが難しい。境界が公式に画定されておらず、名称に表記揺れがあり、一方の資料では一つの村が他方では東西二村に分かれるという粒度の相違もある。

幕末期近世村領域データセットは幕末期の近世村66,581件を収録し、各村の領域を現代の農業集落境界データで近似している [UC-013 §江戸時代の村のデータセット——統合の試みと課題]。現代の農業集落と江戸時代の村にはそれなりの連続性があるという前提に立った代用であり、完全に同じものではない [UC-033 §地名のデータセット:行政区域から近世村へ]。これと平凡社『日本歴史地名大系』地名項目データセット(80,502件)を名称の一致で照合した江戸近世村統合データセットでは、約56,000件が同じ村を指すと判断できた一方、粒度の相違や表記揺れによって対応づけられない例が相当数残った [UC-013 §江戸時代の村のデータセット——統合の試みと課題]。表記揺れの一因にはOCR誤りも含まれており、どれが正しいかを一つ一つ確認するのは大変な作業になると述べられている [UC-013 §江戸時代の村のデータセット——統合の試みと課題]。

[UC-012 §江戸近世村データセット] でも同様に、一方では一つの村が他方では東西に分かれて粒度が異なる場合や、村名の表記が異なって対応づけられない場合が見つかっており、「丁寧に進めるにはかなりの時間がかかる」と見込まれている。

藩という単位の固有の困難

藩は、行政区域や村よりも一段と定義の難しい単位である。江戸時代に幕府が「藩」を公式にリスト化したことはなく、「藩」という語自体が明治以降に使われるようになったものである [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化]。このため、総数の確定も藩の定義そのものも歴史研究の問題に属し、データセットの側が厳密な定義を扱うことはできない [UC-012 §藩IDデータセット]。

藩IDデータセットは、『藩史大事典』など複数の事典を比較して統合・分離を検討し、寛文4年(1664)から明治4年(1871)に存在した藩として408藩にIDを付与した [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化]。ただしこれも唯一の正解ではなく、本研究の判断であるとされている [UC-012 §藩IDデータセット]。

呼称にも公式の基準がない。地名で呼ぶか家名で呼ぶかという違いがあり(仙台藩と伊達藩)、出羽・伊予・備中に同名の松山藩が三つあるような場合もある [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化]。代表的な呼称は、J-STAGEの論文での使われ方やWikipediaの用例という現代の利用実態も参照して決めており [UC-012 §藩IDデータセット]、呼称の選択にはデータを設計する側の判断が不可避に入り込む。

空間的な表現も単純ではない。藩の領域は居城の周囲にまとまるという素朴なイメージとは異なり、加賀藩・熊本藩・尾張藩などでは領分が複数の地域に分かれ、飛び地を持つ例が多い [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化]。また、村は基本的に一つの領主に属するが複数の領主を持つ村もあり、村と藩は多対多の関係にある [UC-010 §藩IDデータセットと村・藩の統合的な可視化]。藩の代表点は居城・陣屋の位置で与えられるが、一万石規模の小さな藩では所在が判然としないものもあり、精査が続いている [UC-012 §藩IDデータセット]。位置を一点に決められない場合には、Uber H3インデックスを用いた六角形で範囲を指定し、ID自体に曖昧さのレベルを含める工夫が導入されている [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。

さらに、藩と大名家は一対一ではない。江戸時代は藩ではなく大名家が主であり、大名家が移動する場合もあるため、藩IDとは別に大名家IDが必要で、当主交代などのイベントを扱うにはより複雑なID体系が求められると指摘されている [UC-012 §藩IDデータセット]。

時代をまたいで「同じ場所」を指すことの難しさ

旧国・旧郡の境界データについては、明治期と江戸期で国・郡の分け方が異なるため、既存のデータをそのまま使うことができず、旧国・旧郡境界データセットの構築にあたっては江戸・明治の実情に合わせてIDを付与し直している [UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]。単一の時点のデータとして整備されたものを通時的なデータセットとして使おうとするときに、どの時点の区分を基準とするかという問題が生じる。

街道にも同様の難しさがある。江戸主要街道データセット江戸宿場データセットへの番号付与が進められているが、街道には時期による移設や経路の違いがあり、複数経路が想定されうる [UC-012 §江戸期地理データセット]。IDを与えつつ説や時期に応じて複数の経路を割り当てられる柔軟な枠組みが望ましく、ナンバリングにも公式の定義がなく呼称や経路がぶれるため、できるだけ柔軟に対応したいとされている [UC-012 §江戸期地理データセット]。

こうした問題は、既存のデータ資産を通時的に活用しようとするときの一般的な構造的困難でもある。技術的制約のある時代に作られ現代の基準では精度や統合に問題がある場合、データセットが公開されてもサービス展開に至らなかった場合、修正手順が確立されておらず誤りの指摘に対応しにくい場合、翻刻で誤りが混入する場合、といった課題が報告されている [UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]。行政界変遷データベースのように精度の問題でそのまま使えない例もあり、部分的な利用にとどめざるを得ない場合がある [UC-013 §歴史的空間情報基盤の課題と今後の展望]。

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1.4 地図資料の処理

古地図や絵図を現代の地図に重ね合わせる作業——ジオレファレンス——は、歴史GISの実践においてもっとも手間のかかる段階の一つである。測量に基づく地図と、絵のように描かれた地図では求められる手法が異なり、精度の見極めと道具の選択が成果の質を左右する。

位置合わせの原理と基準点の取り方

ジオレファレンスの基本的な手順は、古地図と現代地図のあいだで対応する地点——GCP(Ground Control Point、基準点)——を複数指定し、その対応関係から幾何学的な変換式を推定して古地図全体を変換することである。江戸切絵図の場合、桜田門や堀の屈曲点など形状の特徴的な場所を両図上で対応づけ、地図を回転・伸縮させて合わせる [UC-011 §ジオレファレンスによる位置合わせ]。かつての堀が現在は道路になっている外堀通りのように、対応物が変化している場合は、現存する地物の中から同定できるものを探して合わせる [UC-011 §ジオレファレンスによる位置合わせ]。

GCPを用いる幾何補正は、多くの点の位置を同時に合わせられる一方で、地図全体を歪めるため文字が読めなくなるという問題が生じる [UC-011 §古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。この点は精度と可読性のトレードオフとして意識しておく必要がある。

測量に基づかない絵図への対応

古地図には精度の幅がある。測量した伊能図や乾隆京城全図から、測量に基づかない絵図的な地図まで連続体として存在し、それぞれに対応が異なる [UC-011 §まとめ——不確かさと向き合う歴史GIS]。

江戸切絵図のうち後半の数枚は、有名観光地を枠内に収めるために距離も方向も大きく崩れており、「この道を行けば観光地に着く」という接続関係のみが保たれた地図に近い [UC-011 §歪みの大きい地図への対応]。こうした地図に対して幾何補正をそのまま適用しても、周辺ほど誤差が増して使えない。そこで用いられる方法が二段階の作業である。まずジオレファレンスでおおよその位置に合わせたあと、抽出した地名の点を現代地図と見比べながら一点一点を正確な位置へ手作業で移動させる [UC-011 §歪みの大きい地図への対応, UC-013 §江戸マップ——古地図のデータベース化とジオリファレンス]。江戸切絵図ではこの作業を29枚・約8,000か所すべてに行い、江戸全体の図を初めて表示できるようになった [UC-012 §江戸マップデータセット]。

グリュンヴェーデルの中央アジア調査地図は別の問題を提起する。この地図はスタインの地図に比べて位置・方位が不正確だが、調査した遺跡と出土遺物の紐づけ情報を持っており、情報としての価値は高い。ここで有効なのがトポロジカルマップの考え方——地下鉄路線図のように距離や方位は保証せず、接続関係(どこと隣接しているか)のみを信頼する読み方——である [UC-011 §信頼できない地図をトポロジカルに読む]。描かれた道や壁の位置関係を接続関係として読み、写真の位置関係も併用することで、結果的にほとんどの遺跡を同定できた [UC-011 §信頼できない地図をトポロジカルに読む]。

歪みと精度——測量済みの地図でも生じるずれ

測量に基づく地図であっても精度は均一でない。スタインが中央アジアで作成した地図では、緯度経度の線が描かれているにもかかわらず、その座標に基づいてGPSで現地へ赴いても遺跡が見当たらないという問題が生じた。原因は地図上の緯度経度線そのものがずれていたことで、誤差は場所によって数十kmに及んだ。特に経度方向のずれが大きく、これは当時の測量技術の限界——砂漠という温度差が大きく時計が狂いやすい環境では、経度を正確に求めるための時刻合わせが難しかった——による [UC-011 §「消えた遺跡」問題と経度の誤差]。時刻合わせができる都市の付近では精度が保たれる一方、都市から離れるほど誤差が蓄積する構造になっていた [UC-011 §「消えた遺跡」問題と経度の誤差]。「遺跡が消えた」という解釈は誤りで、「地図がずれていた」ことが分かると遺跡はそこにある——デジタルで地図を合わせることで初めてこの誤りが訂正された [UC-011 §「消えた遺跡」問題と経度の誤差]。

伊能図の場合も同様で、測量したのは海沿いが中心であり内陸は調査しておらず、測量した部分にもずれが見られるため、岬の地点や街道の屈曲といった特徴を現代地図と対応づけて位置を合わせながら用いる [UC-011 §地図の土台をつくる——海岸線と伊能図]。

大規模な地図では別種の問題も生じる。乾隆京城全図の位置合わせ作業では、GCPを取ろうとしても合わない箇所があり、調査の結果、5枚のシートで配置が入れ替わっていること、また1枚の中で左右が逆転しているものがあることが判明した。撮影時のミスや地図修復時の取り違えによるものと考えられ、「正しくつながるかを確認しなければならない」という教訓が得られた [UC-011 §北京・乾隆京城全図の大規模幾何補正]。

幾何補正とインタラクティブな方式の使い分け

ジオレファレンスには大きく二つの方向がある。一つは幾何補正(GCPを用いた方式)で、全体を数学的に変換し多くの点を同時に合わせる。もう一つはインタラクティブ・ジオレファレンシングで、今見たい一点だけを合わせ、地図の形を歪めない [UC-011 §古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。

インタラクティブな方式は、地図上の文字が読める状態を保ちながら特定地点の位置を確認したい場合——スマートフォンで現在地を中心に合わせて見るような用途——に適している。歪みの大きい地図では幾何変換すると可読性が著しく下がるため、この方式が有効になる [UC-011 §まとめ——不確かさと向き合う歴史GIS]。シルクロード調査地図の経度ずれを示すために開発されたマッピニングは、一点を選ぶと背景地図が動いてその地点だけを合わせ、ずれの大きさを表示するという一点合わせの実装例である [UC-011 §「消えた遺跡」問題と経度の誤差]。

ある程度の精度がある測量地図であれば幾何補正でどのピクセルが現代のどこに対応するかが分かる。一方、歪みの大きい地図は幾何変換すると可読性が下がるため歪めずに一点だけ合わせる方式が有効になる——というのが実践から導かれた使い分けの原則である [UC-011 §まとめ——不確かさと向き合う歴史GIS]。点データについては、ジオレファレンスはあくまで出発点であり、現代地図との比較や現地調査を重ねて精度を高めていく [UC-011 §まとめ——不確かさと向き合う歴史GIS]。

主な道具とサービス

実践で用いられているソフトウェア・サービスを整理する。

日本版Map Warper は立命館大学が公開するWebサービスで、画像をアップロードしてGCPを打つと位置合わせができる。OpenStreetMapを土台とし、多くの人が地図を持ち寄って合わせることができる。江戸切絵図のジオレファレンスに用いられた [UC-011 §ジオレファレンスによる位置合わせ, UC-013 §江戸マップ——古地図のデータベース化とジオリファレンス]。

Allmaps はIIIFに対応したジオレファレンスツールで、IIIFで公開された地図を取り込んで位置合わせする。複雑なGIS基盤やXYZ形式のタイル生成を必要とせず、IIIFサーバーさえあれば動くため、ミュージアムやライブラリの環境と相性がよい。複数ページの紙をつないで一枚の地図にすることもできる [UC-011 §古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。古地図のジオレファレンスにIIIFを活用する際の具体的な構成については「画像の流通基盤」を参照。

Maplat はインタラクティブな一点合わせに近い方式を採り、古地図やイラストマップ・路線図のように絵のように描かれた空間表現を扱う。位置関係が逆転しないよう同相変換を行い、三角形への分割と線の変換によってもとの線が保たれるようにしている [UC-011 §古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。

Georeferencer はデイビッド・ラムジーの地図コレクションに付随するサービスで、ブラウザ上で点を打って合わせるほか、三次元的な重ね合わせもできる [UC-011 §古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。

乾隆京城全図の大規模な幾何補正では、GCPに加えて線を線に対応づける新しい方法も開発された。北京城内の碁盤目状の道に対応するため、直線が直線として保たれる数学的な変換が必要になるという、対象固有の事情が手法の開発を促した例である [UC-011 §北京・乾隆京城全図の大規模幾何補正]。

公開されている成果物

ジオレファレンスの成果は、いくつかのデータセットとサービスとして公開されている。

江戸マップ は江戸切絵図29枚から地名8,788件(記事によって8,719件とも表記される)を抽出してデータベース化したもので、各地名に現代の位置が対応づけられている [UC-011 §地名の抽出とIIIFによる注釈, UC-012 §江戸マップデータセット, UC-033 §地図のデータセットと古地図の活用]。この地図は現代風デザインの歴史地図れきちず(株式会社MIERUNE運営、CC BY-NC-ND)と重ねて利用できる。過去の地図の上に過去の情報を載せることで解釈が容易になり、たとえば海岸線沿いの地名が現代地図では陸上に乗って意味が取りにくいのに対し、当時の海岸線を背景にすると正しく読める [UC-012 §江戸マップデータセット]。

江戸末期海岸線/水域データセット および江戸末期湖沼データセット は、複数資料を基に人手で構築しGeoJSON形式で公開したものである。海岸線は江戸時代と現在で大きく異なり、資料に登場する人物が海沿いを歩いたかどうかの判断にも関わる。資料に情報がそろっているわけではないため、複数の資料を組み合わせ、不足部分を推定しながらの作業になる [UC-033 §地図のデータセットと古地図の活用]。

ディジタル・シルクロード プロジェクトでは、シルクロード地域の資料を集めてデータベース化し、古地図についても位置合わせと誤差の分析が行われた。マッピニングによる誤差の可視化もその成果の一部である [UC-011 §ディジタル・シルクロードの古地図を読み直す]。

乾隆京城全図 のデジタル化・公開もディジタル・シルクロードの成果であり、約290億ピクセルの大規模地図のジオレファレンスが行われた [UC-011 §北京・乾隆京城全図の大規模幾何補正, UC-016 §地図と組み合わせた過去の景観の再現]。

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1.5 地誌という資料

地図が現実世界の幾何的な記述であるのに対し、地誌はテキストや画像として地理情報を言及するメディアデータの集合である。この対比は「地理空間」と「情報空間」という二層の区別として定式化されており(定式化の詳細は「地名という接点」を参照)、地誌はその情報空間に位置する [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。

地誌に含まれる資料の多様性

地誌という概念が指す資料の範囲は広い。名所図会・地域誌・案内記・買物案内・武鑑のような刊行物が典型だが、それらは地名・人名・商店名・街道・物価といった情報を地域ごとに集積したものとして共通の構造を持つ。古地図の一種である『江戸切絵図』もまた地誌的な性格を帯びており、29枚から8,788か所の地名を抽出してデータベース化した「江戸マップ」の事例は、地誌の資料としての情報密度を示している [UC-033 §地図のデータセットと古地図の活用]。地誌には現在の地図サービスでは確認できない地名が数多く含まれており、その発掘は史料解釈の前提となる。

地誌に記されているもの

地誌が記録するのは地名だけではない。商店の分布・街道との関係・当時の景観・人の往来など、空間に紐づいた社会的・経済的な情報が含まれる。江戸時代の商店の分布を地図に重ねると、町の領域に店が集まる傾向が読み取れるという観察は、地誌的情報が単なる地名の列挙ではなく、空間的な社会構造の記録であることを示す [UC-033 §地図のデータセットと古地図の活用]。

地誌における地理情報の参照様式は一様ではない。テキストとして地名を言及する場合もあれば、画像として地域の様子を描く場合もある。この異質性が地誌を扱う際の基本的な困難のひとつである [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。

地理情報との接続——地名を介在させること

地誌の情報を地理空間に接続する際、地名が両者の接点となる。地名はテキスト中で言及でき、かつ地図上に表示できるエンティティであり、この二重性が情報空間と地理空間を橋渡しする [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。地名に識別子(ID)と位置情報を付与することで、史料中の記述が地図上の点に接続される。地名辞書・識別子・ジオコーディングの技術的な詳細は「地名という接点」で扱う。

地名への識別子付与では、何を同じエンティティとみなすかという判断が避けられない。東京という地名が指す範囲は、東京市15区・35区・現在の23区・東京府・東京都と時代によって異なり、これらを同一視するかは目的に応じて基準を決める必要がある [UC-033 §地図・地誌・地名の枠組みと識別子付与の方針]。地誌を利用する研究者は、資料中の地名が指す時代的・行政的な範囲を意識したうえで接続を設計することになる。

地誌が前提とする空間の復元

地誌の記述を正しく地図に重ねるには、当時の地理的条件を再現する必要がある。海岸線は江戸時代と現在で大きく異なり、資料中の人物が海沿いを歩いたかどうかの判断にも影響する。湖沼についても、当時は広大だった水域が現在は埋め立てられている場合がある [UC-033 §地図のデータセットと古地図の活用]。地誌の記述が前提としている景観は現在のそれとずれており、その補正なしに空間的な解釈を行うことは誤読を招く。

歴史的な幕末期近世村のデータセット(66,581村を収録し、各村に石高が対応する)のように、地誌的情報と経済的指標を組み合わせたデータが整備されつつあり、地誌から取り出した情報を定量的な文脈に置く素地が生まれている [UC-010 §地名・村のデータセット]。

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1.6 地理データの形式と公開基盤

地理データの実践では、ラスタとベクタという二つのデータモデルの選択が起点になる。どちらを選ぶかは、ファイル形式や配信方法、そして後続の再利用可能性に波及する。

ラスタとベクタ——データモデルの選択

ラスタデータは四角形のグリッドすべてに情報が埋まった構造で、衛星画像がその典型である。ベクタデータは点・線・ポリゴンという図形として位置情報を表す。点は店や学校などの特定の場所(POI)、線は道路、ポリゴンは行政区画の境界に対応し、ポリゴンは始点と終点が一致する閉じた図形として定義される [UC-009 §ラスターデータとベクトルデータ]。

面の表現にはポリゴンのほかに TIN(Triangulated Irregular Network)も用いられる。点どうしをドロネー三角形分割で結んで三角形の網を構成し、各頂点に標高などの値を与えることで三次元の表面を表現する。センサーが置かれた地点から、センサーのない場所の値を補間する場面で登場する [UC-009 §ラスターデータとベクトルデータ]。

プロジェクトが扱う対象が面的な連続値か、個別の地物かによって、どちらのモデルを主として用いるかが決まる。座標系や投影法がこのモデル選択にどう絡むかは「空間の表し方」を参照。

デスクトップ GIS とレイヤー管理

デスクトップ GIS は、ファイル形式に依存せずラスタ・ベクタの双方を読み込み、レイヤーとして重ね合わせて可視化・分析する環境を提供する。道路・建物・行政境界などをレイヤー単位で独立に管理し、表示の組み合わせを切り替えられる点が特徴で、オープンソースの実装としては QGIS が広く使われている [UC-009 §GISの機能とレイヤー]。

バイナリベクタタイルによる大量地点の配信

多数の地点データをウェブ地図上で扱う場合、形式の選択が表示性能に直結する。歴史地名マップの構築では、298,914件の歴史地名データをバイナリベクタタイルに変換することで、大量の地点を1枚のウェブ地図に表示することを実現した [UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]。静的なファイルとして提供できるタイル形式は、サーバ側の動的な処理なしに大規模データを配信できるという性質を持ち、この事例はその実践的な示例となっている。

形式の選択が再利用可能性に与える影響

既存データセットをどの形式・設計で公開するかは、後続の再利用可能性を左右する。旧国・旧郡境界データセットの事例では、公開されている「幕末明治地勢地図境界データ」を再利用しようとした際、明治期と江戸期で国・郡の分け方が異なるため、江戸・明治の実情に合わせて新たにIDを付与し直す作業が必要になった [UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]。データとして形式が整っていても、ID設計や区分の定義が実情と合わなければそのまま再利用できない。これは形式の問題にとどまらず、意味的整合性の問題として現れる。

過去に作られたデータセットの再利用には、形式とは別の層の課題も伴う。技術的制約のある時代に作られ精度や統合に問題がある場合があること、データセットが公開されてもサービス展開・プラットフォーム化に至らなかったこと、誤りの修正手順が確立されておらず指摘に対応しにくいこと、紙資料のデジタル化・翻刻(OCR)で誤りが混入することの四点が報告されている [UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]。これらは形式の選択段階では見えにくいが、公開後に維持管理の負担として残る点で、形式設計と切り離せない。格納先の選択やAPI配信の一般論は「データの格納と情報基盤」を参照。

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2 画像と視覚資料

画像・写真・三次元といった視覚資料を、研究のためのデータとしてどう作り、どう流通させ、どう分析するかをまとめる。

2.1 資料をさがす・集める

研究の出発点は、何を集めるかの判断にある。どこにあるかを知ること、横断的に探すこと、そして悉皆を目指すか標本でよいかを意識的に決めること——この三つが、後の分析の範囲と結論の射程を規定する。

機関をまたいで探す——横断検索の仕組みと前提

デジタルアーカイブの世界では、資料は一つの機関に集中していない。複数の機関が公開する日本文化関連のデジタル資料を横断的に検索可能にする仕組みとして、Cultural Japan のような取り組みがある。100万件におよぶデジタル資料を収集し検索できる状態にしていることが報告されている [UC-003 §Cultural Japan とセルフミュージアム]。この規模の横断収集を可能にしているのが、IIIF の相互運用性である——さまざまな機関が公開する画像を同一の技術で扱えるため、組織横断的かつ広域的な資料の発見と収集が現実的になった [UC-040 §知見と今後の展望]。IIIF の仕組みそのものについては「画像の流通基盤」を参照されたい。

機関横断的な検索にあたって実際的な制約となるのは、探し当てた資料がどのような形式で公開されているかである。IIIF に対応した機関のデータは横断的に扱いやすい一方、非対応の機関の資料は別途アクセス手段を確保する必要がある。また、多くのミュージアムやライブラリによる高解像度画像の公開が大規模なデータ収集の基盤となっている事実が指摘されており、データを公開する機関側の努力なしに研究者側の収集は成立しないことが前提として置かれている [UC-040 §知見と今後の展望]。

何を集めるかの判断——悉皆か標本か

資料を集める前に、どこまで集めるかを決めなければならない。この判断は、後の分析で何が言えるかを直接左右する。

写真資料を例にとると、京都の鉄道・バス写真データベースでは、立命館大学 ARC が所蔵する約9,200点の鉄道・バス写真を対象として構築されている [UC-005 §京都の鉄道・バス写真データベースの構築]。この場合、対象は「ARC 所蔵の当該写真」という形で範囲が定まっており、その範囲の中で悉皆的に収集する構成になっている。素材として市電写真を選んだ理由は明示されていて、車両・路線・背景から撮影場所や時代を特定しやすいこと、個人撮影ながらまとまったコレクションとして残されていることが多いこと、コミュニティから資料情報を得やすいことなどが挙げられている [UC-005 §京都の鉄道・バス写真データベースの構築]。資料を選ぶ段階での判断が、後の分析で何が問えるかを決定している。

空間データの構築においては、「何を同じエンティティとみなすか」の判断が難しく、そこに多くの労力がかかることが報告されている [UC-012 §大規模空間データセット構築の方針]。藩・村・都市・街道・海岸線を対象とした大規模空間データセットでは、どのようなエンティティが存在するかを特定して固有の ID を割り当てる作業を出発点としており、名称の表記ゆれや粒度の相違を吸収することも課題となる [UC-012 §大規模空間データセット構築の方針]。悉皆を目指す場合、「悉皆の対象が何か」を定義する作業そのものが研究の一部となる。

集めた範囲が結論を規定するということ

集めた範囲が後の結論を規定するという認識は、資料収集の設計段階で自覚的に持つ必要がある。

定量的・データ駆動型の研究では、この問題が特に鋭くなる。精読と遠読、定性的な方法と定量的な方法を目的に合わせて使い分ける知識の重要性が指摘されているが [UC-040 §知見と今後の展望]、どちらの手法をとるにしても、手元にある資料の集め方が分析の有効範囲を決める。

資料収集において専門的なコミュニティの知識が果たす役割も軽視できない。京都の市電写真の同定作業では、建築工学・人文学・情報学・文化財保護・市電の専門家・京都市役所職員が参加しており、地域の知識が撮影場所の特定に鍵を握る場面が報告されている [UC-005 §京都の鉄道・バス写真データベースの構築]。資料を「集める」行為は、しばしばこうした専門知識との協働によって初めて成立する。

データを集めた後の利活用を想定したとき、メタデータの設計が収集の段階から問われる。利用者の流通を想定するなら相互運用性を考慮した形式が必要になること、何のために付けるか・どの項目を対象とするかという論点が最初から存在することが整理されている [UC-021 §メタデータをめぐる論点:利用者・項目・専門性]。集めた資料にどのようなメタデータを付与するかは、その資料が後で誰にどう使われるかを左右する。メタデータ設計の詳細は「メタデータ」を参照されたい。

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2.2 画像の流通基盤

IIIF(International Image Interoperability Framework)は、世界中のミュージアムやライブラリが公開する画像を、機関をまたいで同じビューアで閲覧できるようにする国際的な画像配信方式である。この相互運用性が整うことで、所蔵機関の異なる資料を一つの画面に並べて見るという作業が、個々の機関との特別な交渉なしに実現する。

Image API と Presentation API の構成

IIIF は複数の API から構成される。その中心となる Image API は、画像の配信を HTTP リクエストで標準化する仕様である。URI に領域・サイズ・回転・品質・フォーマットのパラメータを組み込んで画像サービスへ送ると、指定した条件に従った画像が返ってくる 1。同じ仕様に対応したサービスであれば、どのビューアからでも同じ方法で画像を取得できる。

Presentation API は、閲覧環境がオブジェクトをどう表示するかを指定するための仕様である。デジタル化された画像・映像・音声などをユーザーに提示し、複数のビューや時間範囲をシーケンシャルまたは階層的にナビゲートさせ、コンテキストとなる説明情報を表示させるための情報を提供することを目的とし、検索エンジン向けのメタデータ収集は意図的に対象外とされている 2。現行の安定版は Presentation API 3.0 で、2020年6月3日に公開されている 2

マニフェストとキャンバスの役割

Presentation API の中心的なデータ構造がマニフェストである。マニフェストは、ある資料をどのような順序・方向で閲覧するかの情報を保持する。たとえば和書と洋書ではページをめくる方向が逆になるが、IIIF にはどちら側にめくるか(viewingDirection)を指定する機能があるため、同じビューアでどちらも表示できる [UC-001 §IIIF画像の閲覧]。マニフェストを構成するキャンバスは画像を配置する単位であり、のちにキュレーションによって画像の一部分を切り出すときや、複数機関の資料を一覧にまとめるときの参照点になる(詳細は「部分を切り出す」を参照)。

機関をまたいで資料を並べて見る

IIIF の相互運用性がもたらす変化は、画像を複製せずに機関をまたいだ比較ができることである。『源氏物語』の写本・版本を例にとると、東京大学総合図書館所蔵の写本に限らず九州大学をはじめ複数の機関で公開されている諸本を集約し、一つの環境から比較できるようになる [UC-003 §「デジタル源氏物語」と諸本比較支援]。この集約を可能にするのは、各機関のマニフェストをそのまま参照できるという仕組みであり、複数マニフェストにまたがるアノテーションの管理にも同じ枠組みが適用できる。

機関横断的な閲覧環境は、資料を物理的に手元に引き寄せることなく成り立つ。CODH が公開した江戸マップを例にとると、国立国会図書館デジタルコレクションの江戸切絵図はコピーせず国立国会図書館にアクセスして画像を取得し、その上に重ねるオーバーレイ情報だけを別途作成している。利用者が独自に付加情報を作って公開し、元のデータは提供元から取得するという構成である [UC-001 §地図へのアノテーション]。

相互運用性の前提として何を揃えるか

この仕組みが成立する前提は、対象の画像が提供機関から IIIF で公開されていることである [BP-001 §画像は複製しない領域とメタデータを持つ]。IIIF が世界中で急速に普及した背景には、ミュージアムやライブラリといった画像提供者の共通のニーズに応えたことがあると指摘されている。共通形式でデータを公開して相互運用性を担保することで同じツールで世界中の画像にアクセスできるようになり、各種ツールが IIIF を前提とするにつれて、IIIF に対応していないアーカイブが逆に「不便」とみなされる状況が近づいているという見方もある [UC-001 §IIIFの相互運用性とICPの独自性]。

Image API 3.0 は最新の安定版として現行の基準となっており 1、この仕様に対応したサービスを構築することが、他機関・他ツールとの接続性の出発点になる。接続性があるとはいえ、現在の IIIF の枠組みで適切に扱えない資料形式もある。時系列画像のように「前」「次」が時間の移動になる資料や高頻度観測の連番画像は、標準仕様の範囲では表現しきれないため、Timeline API や Cursor API として独自に拡張した API が用いられるが、これらは独自拡張に対応したビューアでしか表示できない [UC-001 §IIIF画像の閲覧]。

利用者側の視点を持ち込む

IIIF の仕様は画像の「提供者側」の視点で設計されている。これに対し、利用者が特定のテーマに沿って複数機関の画像を集め、並べ直し、付加情報を与えて公開するという「利用者側」の視点は、標準仕様のみでは直接サポートされていない。この差を埋める試みとして、Curation API という仕様が独自に整備されており、キュレーションリストを介して領域・メタデータ・アノテーションを一元管理する形が実践されている [UC-001 §キュレーションプラットフォームとキュレーションAPIの区別]。Curation API はデータのフォーマットや提供方法を定めた仕様であり、特定のソフトウェアへの依存を前提としない点がその設計上の位置づけである。

この枠組みが複数機関の画像に対してどう機能するか、また部分を切り出して集め直すという実践がどのように成り立つかは「部分を切り出す」を参照。

参考資料

[1] Image API 3.0 — IIIF | International Image Interoperability Framework. https://iiif.io/api/image/3.0/, 取得日 2026-08-07 [2] Presentation API 3.0 — IIIF | International Image Interoperability Framework. https://iiif.io/api/presentation/3.0/, 取得日 2026-08-07

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2.3 部分を切り出す

画像資料の一部を切り出し、テーマに沿って集め直す作業は、デジタル化されただけでは達成されない。提供機関をまたいで部分を集積し、メタデータを付与して横断検索を可能にして初めて、資料の断片が研究・教育の素材として機能し始める。

何を単位として切るか

切り出す単位は研究の問いによって決まる。顔貌コレクション(顔コレ)では人物の顔が一切り出しの単位となり、IIIF Curation Viewer の矩形選択機能を使って絵巻物の顔貌を一つずつ囲む操作が積み重ねられた。2021年2月時点で299作品・8,845顔貌が収録されている [UC-002 §顔貌コレクション(顔コレ)とは]。顔貌に限らず、江戸時代の買物情報や観光情報を単位とした切り出しも同じ枠組みで実現されており、切り出す単位は資料の種類や研究の目的によって変わる [UC-002 §人文学資料のマイクロコンテンツ化]。武鑑の家紋や道具を切り出して持ち物の一覧を作るという用途もある [UC-001 §ICPの高度な利用]。

このように、デジタル化された資料から部分を抽出・収集し、メタデータを付与した上で横断検索・一覧化・研究活用につなげる取り組みを、マイクロコンテンツ化と呼ぶ [UC-002 §人文学資料のマイクロコンテンツ化]。元の画像ファイルを複製せず、提供機関が IIIF で公開している画像を参照した上で、切り出した部分領域とそこに付けたメタデータだけを自分たちのデータとして持つ点が、この仕組みの基本的な性格である [BP-001 §画像は複製せず領域とメタデータを持つ]。前提となるのは、切り取る対象の画像が提供機関から IIIF で公開されていることである [BP-001 §画像は複製せず領域とメタデータを持つ]。

キュレーションリストに何を記述するか

切り出した部分はキュレーションリストに蓄積される。このリストは JSON 形式で管理され、切り出した領域の座標と付与したメタデータを一体として保持する。顔コレでは向き・性別・職業といった項目を統一的に付与しており、8,000を超える顔貌に項目を一括挿入するために IIIF Curation Editor 上でキュレーションの JSON を表示させ、空のメタデータ項目を検索置換で挿入するという工夫が採用されている [UC-002 §顔コレ構築のワークフロー]。個別のメタデータの追加や変更には IIIF Curation Editor を使うが、大規模な編集作業には向かないという限界も指摘されている [BP-001 §工程ごとにツールを使い分ける]。

複数の資料(マニフェスト)からそれぞれ切り出した画像領域をメタデータとともに管理するという要件に、IIIF キュレーションリスト1ファイルのみで対応できる点が、管理の容易さとして挙げられている。複数機関で公開されている写本・版本を集約した「デジタル源氏物語」のように、複数マニフェストにまたがるアノテーションの集約にキュレーションリストが適している [UC-003 §『捃拾帖』内容検索システムと貼り込み資料の自動抽出]。

Canvas Indexer による索引化と facetsEndpointUrl を用いた集計

切り出したデータを検索可能にするには、JSONkeeper に保存されたキュレーションを Canvas Indexer がクロールしてキャンバス単位に分解し、索引化する工程が必要になる。Canvas Indexer はビューアやファインダーの背後にあるデータベース的なソフトウェアで、これに機械学習によるタグ付けサービスを連携させ、顔にタグを付けて検索するといった拡張も可能である [UC-001 §ICPの高度な利用]。

Canvas Indexer が構築した索引は、searchEndpointUrlfacetsEndpointUrl の二つの口から参照できる。searchEndpointUrl からはキュレーションに含まれる画像とメタデータの一覧が得られ、facetsEndpointUrl からは付与されたメタデータの一覧と各値の付与数が取得できる。男女の比率のような統計的な検討に活用できるほか、顔コレデータセットの構築にも応用されている [UC-002 §メタデータ検索と派生キュレーションの作成]。

IIIF Curation Finder による横断検索と派生キュレーションの作成

利用者が操作する表側では IIIF Curation Finder が稼働し、付与したメタデータによる横断検索を提供する。Label「身分」に紐づく Value「化身」を選ぶと仏・鬼・怪物などの顔貌を横断的に閲覧でき、表示単位はキャンバス(個々の顔貌)とキュレーション(作品単位)で切り替えられる [UC-002 §メタデータ検索と派生キュレーションの作成]。

IIIF Curation Finder には、検索結果の「+」ボタンで気になる部分をリストに登録し、エクスポートして派生キュレーションを作成する機能がある。複数の作品から似た顔貌を集めて比較するという、美術史の古典的な様式分析手法に直接対応する操作で [UC-002 §メタデータ検索と派生キュレーションの作成]、『石山寺縁起絵巻』を題材とした教育プログラムでは、学生が検索機能で典型に近い顔貌を考察し、考察結果をグループごとに派生キュレーションとして作成・共有している [UC-002 §『石山寺縁起絵巻』を用いた美術史教育プログラム]。

既存のキュレーションから派生キュレーションを作る手順には、蓄積済みのデータが新しい問いの出発点になるという意義がある。特定の顔貌の典型を絞り込んだり、作品横断的な比較対象を選んだりする判断を、索引の上で即座に試せるためである。

多人数で集合的に集めるやり方——キュレーソン

複数人で分担して切り出す場合には、IIIF Curation Manager によるグループ作業管理が必要になる。各作業者がメールアドレスと任意のパスワードでログインする「メールでログイン」機能を用いることで、管理者が各アカウントの情報を把握しながらキュレーションを横断的に確認できる。Google や Facebook のアカウントでログインすると作業者の個人アカウントを管理側が把握することになりプライバシー上の問題が生じるため、共同作業ではメールでのログインが推奨されている [UC-002 §顔コレ構築のワークフロー]。

集合的な切り出しを短時間で行うイベント形式として キュレーソン(Curathon)がある。参加者が集まってキュレーションのアイデアを出し合い、発見を共有するイベントで、アイデアソンやハッカソンと同じ発想に基づく。東京大学文学部の絵巻研究室の学生によるキュレーソンでは、髷に注目したキュレーションや背景の植物に注目したキュレーションなど、同じ研究室の中でも視点の異なる成果が生まれた [UC-002 §キュレーソン:ICPを使ったグループワーク]。

運営上は、テーマをあらかじめ決めておくこと、使いやすいデータベースやデータセットをリストアップしておくこと、検索キーワードの例を準備しておくことで進行がスムーズになる [UC-002 §キュレーソン:ICPを使ったグループワーク]。大人数で実施して後日成果をまとめる場合には、運営側が共通のメールアドレス・パスワードを用意して参加者全員にそれでログインしてもらうアカウント共有の方法が便利で、すべてのキュレーションが一つのアカウントに集まり、まとめての公開やアーカイブが容易になる [UC-002 §キュレーソン:ICPを使ったグループワーク]。

検索・集計・派生が切り出しの作業を支える仕組み

顔コレの実践が示すように、Canvas Indexer による索引化・IIIF Curation Finder による横断検索・facetsEndpointUrl による統計的集計・派生キュレーションの作成という一連の仕組みは、部分を切り出して集め直すという作業をデータとして結実させるために不可欠な層をなしている。切り出した数が膨大になるほど、索引と検索の仕組みが事後の分析を支える度合いは大きくなる。

『遊行上人縁起絵巻』を対象とした様式分析では、服装・髪型が同じ僧侶と尼僧をすべてピックアップし、IIIF Curation Board 上に並べて整理することで、男女の顔貌の描き分けと担当絵師ごとの傾向の違いまでを明らかにしている。500を超える顔貌を平面上で整理する作業は紙の上では物理的に難しく、デジタル上での整理機能がこれを可能にしている [UC-002 §『遊行上人縁起絵巻』の様式分析への応用]。切り出しとその後の集計・比較・整理が一つのデータ形式で一貫しているため、作業の途中から問いを変えたり比較対象を替えたりする試みが実際の研究プロセスの中で行える。

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2.4 文字を読む

画像に写った文字を読む作業は、版面の物理的な構造を解析するところから始まり、字形の同定、認識誤りを前提とした結果の扱い、そして字を活字に起こす翻刻の判断まで、複数の層を持つ。古活字版のような歴史資料では、文字の境界さえ版面から直接には見えない。

版面解析——境界の推定から行グリッドの復元まで

くずし字の認識は、文字の矩形を検出するところから始まる。AIくずし字認識モデルRURIを使った処理では、まず文字の矩形を認識し、デジタル化の際に生じた1〜2度の傾きをその矩形から推定して補正する。次に行を検出してグリッドを推定し、版面にグリッドを重ねる。筆線がグリッドを横切っていれば分割できず同じブロックと判定し、交差がなければ分割できる可能性があると見る [UC-043 §活字ブロックの自動分割]。

嵯峨本『徒然草』のような古活字版では、文字の境界は版面から直接見えない。一つのブロックに複数の文字が連綿で彫られることがあり、37,314ブロック中で1文字のブロックが61.00%、2文字が28.60%、3文字が8.90%にのぼる [UC-043 §古活字データセットV2]。境界推定のアルゴリズムは、ブロックの高さが1ユニットの整数倍になるという前提と、ブロック間がベタ組みであるという前提のうえに組み立てられており、この2条件がおおむね成り立つ資料でのみ機能する [UC-043 §活字ブロックの自動分割]。

この処理の精度は測定可能で、かつ改善の余地がある。人手で作成したコードによる版面分割のF1スコアは0.8599で、筆線を切ってしまう誤りや空白部分を誤って切る誤りが残った。Sakana Fuguのマルチエージェントシステムに20ページの人手注釈データと分割処理の仕様を与え、AIがコードを書いてエラーをフィードバックするエージェンティックループを回したところ、残りの303画像に適用したF1スコアは0.9902に達した [UC-043 §活字ブロックの自動分割]。良い仕様と良い事例を与えれば、AIがコードを自ら改良できる段階にある。

字形の比較と同一活字の同定

認識した文字の刷りから物理的な活字へさかのぼることは、字形比較の問題として設計できる。同じ文字の異なる刷りは文字としては常に似ており、手がかりになるのはインクが一致しない部分の形である。同一活字による刷りでは輪郭に沿った細い縁だけが違い、別の活字であれば筆画そのものの位置が違う [UC-043 §活字ブロックの同定]。

この比較には2種類の測度を組み合わせる。ssim_ink は筆線が一致するかを測る。diff_blobs は余ったインクがどのような形をしているかを測る。この2つを、注釈済みのペアで学習したロジスティック回帰によって1つの数値にまとめたうえで、制約付き平均連結の凝集型クラスタリングを行い、平均類似度が閾値(0.85)を超える2つの族を順次併合する [UC-043 §活字ブロックの同定]。

クラスタリングの検証には、版面の物理的な構造を独立した手がかりとして用いる。1枚の紙(丁)は1つの版から一度に刷られるため、同一の丁に同一活字が2回現れることはない。同じ見開きで向かい合うページでは11,411ペア中227件が同じ活字にまとまったのに対し、同一丁では11,034ペア中1件にとどまった [UC-043 §活字ブロックの同定]。クラスタリングにはページ情報を与えたが丁の情報は与えていないため、この整合は独立した検証として機能する。

活字面の復元と組版構造の把握

同定した活字ごとに複数の刷りを重ねて平均すると、インキングや圧力による変動が相殺され、活字の面が復元される。最も濃い領域はすべての刷りにインクが乗っていた部分であり、嵯峨本からは1,601の印刷面を復元した。復元された面は3次元的な立体としても可視化できる [UC-043 §活字面の復元と組版の復元]。

版面の構造分析から、嵯峨本では1行の高さが17ユニットに固定されており、全体の88.3%の行がちょうど17ユニットに収まる。行の長さを調整するのはテキストの側であり、同じ文字に高さの異なる複数のボディを使い分けることで行の長さを揃える [UC-043 §活字面の復元と組版の復元]。短い行を詰め物で埋めることはせず、背の高い活字や連綿の活字を選んで1ユニットを稼いだり節約したりするという工夫の実態は、版面全体の定量的な集計によって初めて見えてくる。

認識誤りを前提とした結果の使い方

認識結果に誤りが残るという前提は、くずし字認識の実践に広く共有されている。KuroNetくずし字認識サービスでは、認識結果をIIIF Curation Viewerの文字マーカーとしてビューア上に重ねて表示し、元の文字と並べて確認・修正できる構成にしている。透明度・表示位置・サイズを利用者が変更でき、KuroNet Text Editorで読み順を手動指定してから翻刻テキストを確定する流れになっている [BP-001 §機械の認識結果を人手の確認に戻す]。

この往復構成は複数の事例に共通している。『捃拾帖』では人手でアノテーションを付与した826コマを教師データとして機械学習の物体検出を行い、残りの大半の冊から資料を機械的に切り出した。デジタル源氏物語では、くずし字OCRと自動読み順推定で生成した行単位テキストと人手翻刻データの編集距離を計算し、おおむね90%程度の精度で示された対応箇所候補を人手で確認している [BP-001 §機械の認識結果を人手の確認に戻す]。機械処理と人手確認は一方向ではなく、互いの入力になる。この往復が成立する条件として、機械の出力を受け取る側の機能がビューアに用意されていることと、初期の人手作業が教師データとして使える形で残っていることが挙げられている [BP-001 §機械の認識結果を人手の確認に戻す]。

翻刻——字を起こすという判断の層

翻刻は画像から文字を活字に起こす作業だが、そこには読解の複数の層が絡む。塚越氏の整理では、字を「読む」こと、誤りの向こうにある正しいテキストを「読む」こと、語形・構文を分析して「読む」こと、文脈・背景を調べて「読む」こと、関連する別の文献を参照して「読む」ことの5つに分かれる [UC-039 §文献を「読む」とはどういうことか]。テキストに誤字がある場合、知識に照らして正しいテキストを想定しながら読むという操作が含まれることになる。

この枠組みから言えば、翻刻は「字を読む」段階を扱うが、その上に乗る判断——原文の字体や誤字をどこまで残すか——は知識と判断によって決まる。日本語古文に適用する場合、OCRにはNDLOCR-Lite、形態素解析にはMeCabとUniDicという組み合わせが例として挙げられており、各工程で適切なモデルを選ぶことで同じ枠組みを言語ごとに差し替えられる [UC-039 §言語ごとにモデルと資料を差し替える]。どのモデルを選ぶかという判断そのものは専門家の知識に依存する部分が残ると塚越氏は述べている。読解工程の全体設計については「AI で問う・読む」を参照。

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2.5 写真という資料

写真は、過去の景観・出来事・場所を記録した資料であると同時に、「誰が、どこから、どのような意図で撮影したか」という撮影者のまなざしそのものを記録したメディアである。この二重の性格が、写真を資料として扱う際の方法論的な基盤になる。

共時的写真と通時的写真という区別

古写真を資料として利用するとき、目的によって二つの使い方が区別できる。一つは通時的写真(diachronic photographs)の活用で、同じ場所を異なる時代に撮影した写真を重ねることで、景観が時間とともにどう変化したかを把握する。もう一つは共時的写真(synchronic photographs)の活用で、同時代に撮影された複数の写真を地図や空間情報と組み合わせ、ある時点の都市景観や遺跡の配置を平面的に再現する [UC-016 §Memorygraphアプリによる景観の変化の把握]。

通時的な比較の具体例として、東京のお堀を対象とした事例がある。明治・大正期の古写真と現在の同一地点を重ねると、建物群は大きく変わっていてもお堀の形は保存されているという対比が見えてくる [UC-016 §Memorygraphアプリによる景観の変化の把握]。このような比較をうまく行うには、変わりにくい要素(地形など)と変わりやすい要素とを見分ける景観を読む力が求められる [UC-004 §利用上の留意点:難易度のギャップと景観を読む力]。

共時的な活用では、北京を対象とした事例が参照できる。『乾隆京城全図』をジオレファレンスして地図化し、1900年頃の写真アルバムに写る建物群を地図上の地点と一つずつ対応づけることで撮影地点を特定する手法が採られた。この過程で、一見建物に見えるものが通りの上に建てられた仮設の建造物であることが判明したように、空間情報との照合によって写真単体では解釈しきれない内容が読み取れる [UC-016 §地図と組み合わせた過去の景観の再現]。写真や映像は地理座標を通じて実世界と結びつく空間的な資料でもあり、空間的な文脈を知ることでより深い解釈が可能になる [UC-016 §視覚的・空間的な歴史資料という視点]。

古写真の同定という作業

撮影地点や撮影対象が不明な古写真を特定する作業は、写真資料を学術的に扱うための前提になる。この同定には写真単体ではなく、地図・衛星写真・遺構平面図・報告書など複数の資料を組み合わせる方法が採られる [UC-008 §古写真を用いた遺跡同定の方法論]。

シルクロード探検隊(ドイツ=トルファン探検隊)の古写真を用いた事例では、同定の困難さのいくつかの型が記録されている [UC-008 §遺跡同定の事例]。第一に、景観が激変した場合——かつての遺跡周辺がぶどう畑と化し、高速道路工事も進んでいる状況——でも、写真による位置の確定が遺跡の所在を示す手がかりになりうる。次に訪れたときには同じ写真を撮れなくなる可能性が高い状況であったことも報告されており、現時点での記録の蓄積が将来の同定作業の基盤になるという含意がある。第二に、同一の場所について報告書の記述と現地の記録が大きく食い違う場合には、言葉による説明よりも同一構図の写真を突き合わせる方が対応関係を確認しやすい。第三に、壁画の位置特定のように細部の照合が必要な場合には、撮影方角の異なる写真を拡大して壁面の崩れた箇所などの細部を突き合わせることで対応点を見いだせる [UC-008 §遺跡同定の事例]。

古写真のアーカイブ自体が未整理のまま残っている場合も多い。ドイツ隊の写真群は、撮影対象・撮影地が不明なうえ写真自体も不完全にしか残っていない状態から整理が始まった。キャプションや日記なども残っておらず、カメラマンが同行していない時期の写真はほとんど存在しないという制約もある [UC-008 §古写真を用いた遺跡同定の方法論]。こうした出発点の不完全さは、古写真資料の扱いの一般的な前提として認識しておく必要がある。

撮影場所の同定には地域固有の知識が鍵を握ることもある。京都の市電写真データベースの構築では、北野線沿いにあったバスの車庫(もとは市電車庫)の存在を知っていることが手がかりになるように、地域の知識を持たない人にとって同定は単なる事実確認にとどまらず、その場所への正確な理解や地域の価値を再発見・再評価する機会となる [UC-005 §京都の鉄道・バス写真データベースの構築]。

同一構図撮影という手法

同一構図撮影は、古写真などを基準に同じ地点・同じ構図で現在の写真を撮影し、二時点の景観を比較する手法である。手法としては以前から存在していたが、問題は認知的な負荷にあった。古写真を一度記憶してファインダー越しの像と照合し、ずれがあれば自分が移動して位置を合わせるという作業には、三次元の場面が移動によってどう変化するかを頭の中で予測するメンタルローテーションが求められ、これは人間にとって得意ではない処理である [UC-004 §開発の背景:手動による今昔写真撮影の困難]。

同一構図撮影は、目的によって複数の変形がある。基準に何を使い、何を目的とするかによって、今昔写真・ビフォーアフター写真・定点観測写真・聖地巡礼写真・位置証明写真・撮影シミュレーションという六種類が整理されており、ファインダーに表示するガイド画像を入れ替えるだけで同じ仕組みが多様な目的に対応できる [UC-004 §同一構図撮影の6つの種類]。

これらのうち撮影シミュレーションは、有名な写真の撮影位置・カメラ・レンズ・画角を再現することで、写真家の意図を分析する方法論的な用途を持つ。同一構図撮影が単なる景観比較の手段にとどまらず、写真というメディアを研究するための道具にもなりうることを示している [UC-004 §同一構図撮影の6つの種類]。

撮影を支援するアプリの仕組みと設計

メモリーグラフ(略称「メモグラ」)は、上記の認知的負荷を解決するために開発されたカメラアプリで、iOS・Android向けに無料で公開されている。その中心的な仕組みは、カメラのファインダー上に基準画像を半透明で重ねて表示し、現実の景観と重なるよう撮影者自身が位置を探索するというものである [UC-004 §メモリーグラフとは:同一構図撮影を支援するカメラアプリ]。

このアプリを拡張現実(AR)と混同しないことが設計上の論点になっている。ARでは過去の写真がファインダー越しの世界の特定地点に固定されており、カメラを動かすと写真の見え方が変化する——誰かが用意したコンテンツを受動的に鑑賞するツールである。メモリーグラフではカメラを動かしてもファインダー上の写真は変化せず、座標系の一致を撮影者が能動的に探索する「参加」のためのツールとして位置づけられる。また、紙焼き写真を手に持って再撮影する旧来の手法では写真の裏側の景観が隠れて2枚を独立したデータとして扱えないが、メモリーグラフでは2枚の画像をそれぞれ独立したデータとして記録できる [UC-004 §拡張ファインダーとしての設計:ARや写真再撮影との比較]。

アプリは「シーン」「プロジェクト」「アカウント」の3要素から構成される。シーンは基準となる画像と、それに合わせて撮影された写真の集合で、同じシーン画像に対して複数の人が撮影した結果を集めることで撮影地点の推定に用いることができる。プロジェクトは個人で完結する「マイプロジェクト」と複数人で共有する「共有プロジェクト」に分かれ、後者の閲覧にはメモグラ・ビューア、作成にはメモグラ・マネージャ(招待制)が対応する [UC-004 §アプリの基本要素とプラットフォーム]。

不特定多数が参加するイベントでは、他の参加者がアップロードした写真の表示について個人差が生じることが報告されており、その対応としてアプリ側に「非表示」モードが追加された経緯がある [UC-030 §写真共有機能をめぐる課題と対応]。写真を共有したい・したくない、他の参加者の写真を知りたい・知りたくないという感覚は個人によって異なり、共有設定を一律に決めるのではなく個人単位での制御が必要であることを、実運用が示した例である。

撮れた写真がその場で参照写真として機能し始めるという側面もある。まち歩きのイベントでは、どのあたりから撮影するとよいかという情報を参加者同士が自然に共有し、よく撮れた写真を見せ合う場面が生まれた [UC-030 §ツアー形式の実施で得られた手応えと相互作用]。撮影の過程で生まれた写真が、次の撮影のための参照画像として即座に機能するという循環がある。

写真が記録するまなざし

同一構図撮影を繰り返すことで浮かび上がる問いが、「写真とは何か」という根本的なものである。一般に写真は「カメラで世界を記録したもの」と捉えられるが、メモリーグラフの視点では、カメラの後ろにいる撮影者の存在が前景化する。写真は「撮影者による世界の記録」であり、どこから・どんな姿勢で・どんな意図で撮られたかを抜きには考えられないというメディア観である [UC-004 §メモリーグラフが投げかける問い:写真の再考と身体性]。

この立場に立つと、古写真を基準に同一構図撮影を行う行為は、現在の景観を記録するだけでなく、かつての撮影者と場所・姿勢を共有する行為になる。植生や煙の量といった細部の違いから「撮ったのは別の時代の別の人物だ」と感じ取れるとき、写真が撮影者のまなざしを記録したメディアであることが浮かび上がる [UC-004 §メモリーグラフが投げかける問い:写真の再考と身体性]。シルクロードの現地調査でも、同一構図撮影の過程で、ドイツ=トルファン探検隊のメンバーが高い場所に登って撮影するのを好んでいたことが判明しており [UC-008 §遺跡同定の事例]、撮影者の習慣や意図が写真に刻まれているという点で、このメディア観は方法論と直結している。

景観を「読む」という営みをKitamoto氏は「digitally-enabled criticism」と呼んでいる。絶えず変化する景観の中に不変なもの(invariance)を見出すことであり、同一構図の写真を画素レベルで比較すると人が気づかないような微細な変化が明らかになることがある [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。ただし、景観をうまく読み取る技術はその場所についての知識に依存し、場所をよく知っていれば手がかりを発見しやすい一方、知らなければ理解に時間がかかるという点は、実践上の限界として認識されている [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。

写真資料を扱う研究者にとってこの含意は大きい。North China Railway(华北交通)の写真アーカイブ(1937〜1945年撮影、3万5千点超)の事例では、写真は都市の一部を切り取るにとどまり、撮影地点レベルでの対応づけが元資料のメタデータでは果たせていないという限界が指摘されている [UC-016 §North China Railwayの写真アーカイブとAIタグによる検索]。写真が撮影者の選択の産物であることは、コレクションとしての偏りとして現れ、資料の読み方に直接影響する。

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2.6 三次元の計測と復元

実測に基づくモデルと推定に基づくモデル

三次元記録における最も重要な区別は、実測に基づくモデルと推定に基づくモデルのあいだにある。この区別は技術的な精度の問題ではなく、モデルが何を根拠として成り立っているかという問いに関わる。

実測に基づくモデルは、レーザー計測や測量によって現存する対象を直接計測して構築する。対象が現存する限り、これが原則となる [UC-020 §実測と推定:2種類の3次元モデル]。推定に基づくモデルは、計測できない対象を三次元化するときに用いる。2003年の地震でほぼ全壊したイラン・バム遺跡(アルゲ・バム)の復元プロジェクトは後者の極端な事例であり、現代の遺跡でありながら現地で実測できないため、衛星画像・写真・平面図・地形データ・記録・遺物・人々の記憶という異種のデータを統合して失われた形状を推定するほかなかった [UC-020 §実測と推定:2種類の3次元モデル]。

この区別は、モデルを利用する側にとっても不可欠な情報である。どこが実測に基づき、どこが推定によって補われているかが記録されていなければ、モデルの信頼性を判断する手がかりが失われる。

フォトグラメトリ・レーザースキャニング・SfM が使える条件

レーザースキャニングと、複数画像から三次元形状を復元するフォトグラメトリ・Structure from Motion(SfM)は、いずれも対象が現存することを前提とする。バム遺跡の事例では「レーザースキャンやStructure from Motionといった全自動の手法も、新しいデータを取得できない以上、遺跡が現存しないバムでは使えなかった」と明示されており、崩壊後の記録には適用できなかった [UC-020 §レンダリングと自動化の試み]。

後年の実践として、ドローンを活用した記録や、観光客が撮影した写真から焼損した首里城を復元した例が言及されている。これらは対象が一部現存する、あるいは多数の写真が事前に蓄積されているという条件下での成果である [UC-020 §レンダリングと自動化の試み]。バム遺跡では、NHKが1981年に撮影した7分間の空撮映像が残されていたが、解像度の低さ・カメラ種の違い・修復による形状の変化が壁となり、精度の高い復元には至らなかった [UC-020 §レンダリングと自動化の試み]。

参照データの質が復元の限界を決める

推定モデルの質は、利用できる参照データの質と量に直接規定される。バム遺跡では、外部機関(CNRSおよびICHHTO)から写真測量学的な地図の提供を受け、建物の形状と位置についての大まかな参照データを得た。遺跡への強い思い入れを持つ人々が観光で訪れる場所だったため、写真の提供は広く得られた [UC-020 §参照データと写真の収集]。

しかし2003年はスマートフォン登場前でデジタルカメラも主流ではなく、多くはフィルム写真をスキャンしたもので高解像度にならなかった。半自動モデリング(標高データに写真を重ねて構造とテクスチャを得ようとする試み)は、位置合わせの難しさから成果に至らなかった [UC-020 §レンダリングと自動化の試み]。内部空間については写真がとくに乏しく、天井の形などは建築学的な推定で補うほかなかった [UC-020 §レンダリングと自動化の試み]。

推定を担う専門知識と作業分担

推定に基づく復元では、欠落した情報を専門知識によって補う判断が随所に求められる。バム遺跡の事例では、突起物・窓・門の形などをペルシャ建築として妥当かという観点から判断する必要があった。当初はコンピューター専門家がモデリング(遺跡のジオメトリの構築)とレンダリング(モデルをもとに画像・映像を生成すること)の両方を担い、遺跡専門家は指示を出すだけという体制だったが、欠落部分を補う際の建築上の判断はドメイン知識なしには下せないため、うまく機能しなかった [UC-020 §モデリングとレンダリングの分担と精度・コストの調整]。

遺跡専門家がモデリングを担い、コンピューター専門家がレンダリングを担うという分担に改めることで、正確かつ表現として成立した出力が得られるようになった [UC-020 §モデリングとレンダリングの分担と精度・コストの調整]。この教訓は、「どちらの専門家が何を担当するか」という問いが、推定モデルの精度と妥当性に直接影響することを示している。

精度とコストのバランスも推定モデル固有の問題である。精度を上げるほど手作業が増えてコストが上がり、自動化すればコストは下がるが精度が落ちる。バム遺跡では、重要な部分は手作業で正確に、重要度の低い部分はできるだけ自動でという使い分けが採用された。都市的なスケールを持つ遺跡では、このコスト管理が特に重要になる [UC-020 §モデリングとレンダリングの分担と精度・コストの調整]。

どこを補ったかを記録するという未解決の課題

推定に基づくモデルでどこを補ったかを記録することは、復元の透明性に直結する。バム遺跡プロジェクトでは三次元モデルへの注釈を試みたが「うまくいかず、この領域はまだ発展の余地が大きい」とされており [UC-020 §プロジェクトの教訓と今後の問い]、補完箇所の明示的な記録は技術的・実践的な未解決課題として残されている。メタデータの設計と管理については「メタデータ」を参照。

モデル完成後の活用という問い

バム遺跡プロジェクトの教訓として、三次元モデルを作った後にどう活用するかがより大きな課題として浮かび上がることが指摘されている。ウォークスルー映像を作って公開したが、映像は表現として成立しても継続的な利用にはつながらなかった。データのオープン化は諸事情により難しく、対話型VRサービスの提供も負担が大きすぎたため、映像で見る形しか提供できなかった [UC-020 §プロジェクトの教訓と今後の問い]。三次元データを体験させる仕組みについては「拡張現実と没入」を参照。

今後の問いとして、インタラクティブな利用に耐えるクオリティを外部・内部空間ともに現実的なコストで提供できるか、そして修復によって絶えず姿を変えてきた遺跡をどの時点のモデルとして作るべきかという点が残されている [UC-020 §プロジェクトの教訓と今後の問い]。後者の問いは、記録の対象が単一の固定した状態ではなく時間とともに変化するという、三次元復元に固有の難問である。

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2.8 特徴抽出と様式分析

画像から特徴を取り出して比べる研究は、美術史が長年行ってきた様式分析を、計算機と組み合わせることで規模と速度の点で変容させる。本節では、顔などの対象を画像から自動検出し、大量の部分を並べて様式を観察し、そこから何が言えるかを扱う。

顔の自動認識と様式比較への接続

絵巻物から人の顔を自動認識するという試みは、美術史の古典的な手続き——図像を並べて特徴を比較する——を機械の速度で行う回路を開く。顔コレデータセットの応用として、顔コレに含まれない未知の絵巻物を機械学習で読み込ませ、画面のどの座標に顔があるかを自動認識させる実験が行われている [UC-002 §顔コレデータセットと機械学習との連携]。自動認識の結果は IIIF Curation Viewer に取り込まれ、さらなるデータセット構築の支援にも用いられる [UC-002 §顔コレデータセットと機械学習との連携]。

浮世絵への展開でも同様の論理が働いている。Google の機械学習研究者が既存の API を活用して浮世絵から顔の部分を切り取れることを発見し、CODH がその手法を用いて浮世絵顔データセットを構築した [UC-040 §顔画像データセットの展開とedomi]。データセットが整うと、役者の顔を自動的に切り抜いて並べる構想が続く [UC-040 §顔画像データセットの展開とedomi]。自動認識は「顔がある」という事実を座標として出力する段階にとどまるが、その座標が蓄積されることで、様式を比べるための素材が生まれる。

大量の部分を並べて様式を観察する

自動検出で得られた大量の部分画像を並べて見ることが、様式分析としてどう機能するかは、検索と閲覧の仕組みに依存する。メタデータの値で絞り込むと——たとえば「身分」に「化身」を指定すると——仏・鬼・怪物などの顔貌を横断的に閲覧できる [UC-002 §メタデータ検索と派生キュレーションの作成]。これは作品を超えた図像の類型を、研究者が視覚的に確認する操作であり、従来の様式分析が目録と図版によって行っていたことを、検索で実現したものといえる。

さらに、複数の作品から似た顔貌を集めて比較するために派生キュレーションを作成する機能が用意されており、これは美術史の古典的な様式分析手法に直接対応するものと位置づけられている [UC-002 §メタデータ検索と派生キュレーションの作成]。部分を切り出してキュレーションリストに記述し横断検索で取り出す操作の詳細は「部分を切り出す」を参照。本節の関心は、そうして集められた部分から様式について何が言えるかにある。

機械学習がもたらす可能性と限界

機械学習は、入力と正解の組を与えてモデルを調整していく技術であり、データセットと正解が揃えばデータ駆動型の研究を推進する強力な道具になる [UC-040 §機械学習とは何か]。条件のよい場合には 95% 以上の認識精度が得られるが、学習していないタイプの画像を与えるとまったく認識できないため、何を学習し何を正解できるようになっているかを常に考えながら使うことが大切だ、と指摘されている [UC-040 §機械学習とは何か]。

この限界は様式分析の文脈で具体的な意味を持つ。自動認識が成立するのは、学習データが対象の様式をある程度網羅している場合に限られる。未知の絵師の筆や、学習データと大きく様式が異なる作品を読み込ませると認識精度は落ちる。規模を上げてデータを集めることで何が見え、何が消えるかという問いは「遠読と精読」で論じるが、画像の様式分析においてこの問いは、そもそも何が認識の対象として「見える」かをモデルが決定するという形をとる。

制作分担の推定と様式分析の射程

大量の顔貌を自動認識して並べることが様式分析として何を可能にするかについて、現時点で紐づく記事は具体的な制作分担の推定事例を示していない。顔を自動で切り出し、メタデータで分類し、派生キュレーションとして再編する操作が整備されている [UC-002 §メタデータ検索と派生キュレーションの作成] [UC-002 §顔コレデータセットと機械学習との連携] のは確認できるが、そこから「この顔貌群はこの人物が描いた」という推論がどのように、またどこまで可能かは、記事が直接扱う範囲を超えている。

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3 データモデリングと可視化

データをどう捉え、どう構造にし、どう扱うかをまとめる。規模を変えて見るという立場から入り、そのための道具を順に見る。

3.1 遠読と精読

規模を変えることは、問いの種類を変える。一点を深く読む精読では届かない問いに、大量の資料を集めて集約する遠読が答えることがあり、その逆もある。

集約することで見えてくるもの

絵本や絵巻のデジタル画像から顔の部分だけを切り抜いて集めた「顔貌コレクション(顔コレ)」は、この考え方の具体例である。切り抜いた顔に「山伏」といったメタデータを付与し、網羅的なデータセットを作って並べることで、顔の様式を比較する。一点ずつ見ていては気づかない様式の傾向が、規模を上げて集約することで見えてくる [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]。

歴史記録からのデータ収集も同じ論理に立つ。日記からの気象記録、被害記録からの地震・噴火情報、感染症の記録、米相場、村ごとの人口——これらは一点の資料を読んでも断片にすぎないが、大量に集めて機械可読データにすることで、分布や変化として見える。こうした立場が「歴史ビッグデータ」という語で指される [UC-011 §2. 「歴史ビッグデータ」という課題]。Time Machine Europe が「Big Data of the Past(過去のビッグデータ)」を掲げ、Living with Machines が大量のデジタル化資料からAIで産業革命の影響を分析しようとする試みも、この系譜に位置する [UC-011 §2. 「歴史ビッグデータ」という課題]。

通時的に写真を並べる場合も、同じ問いの構造を持つ。同一構図の写真を継続的に集めて並べると、一枚ずつ眺めていては見逃してしまう変化の痕跡が浮かび上がる。画素レベルで比較すると、人が気づかないような微細な変化が明らかになることがある [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。

集約することで失われるもの

規模を上げることには代償がある。北本朝展氏は、単にデジタルデータを使うことと、デジタルの利点を活用する方向に研究手法そのものを進化させることとのあいだに「大きな違い」があると述べており [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]、この違いは集約と精読の得失に直結する。集約は共通する様式を取り出すが、資料の固有の文脈——誰が、どこで、どのような意図で書いたか——は集約の過程で薄れる。

写真の場合、景観を「読む」ためには「その場所についての知識」が必要だという指摘が示唆的である。場所をよく知っていれば何をどこから撮ればよいかを判断できるが、知らなければ画素の変化を見ても理解に時間がかかる [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。集約によって得られる情報と、精読的な文脈理解によってはじめて解釈できる情報は、別の種類のものである。

古地図を大量に処理するとき、位置合わせのために幾何補正を行うと地図上の文字が読めなくなるという問題が起きる。全体の位置精度を上げるために形を歪めると、個々の表現が失われるのである [UC-011 §6. 古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。この得失の構造については「時間をもつ空間」を参照。

遠読と精読は対立しない

データ駆動型人文学は、データの共有やエビデンスに基づく検証という新しい文化を人文学に導入することも課題だとされる [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]。照合可能な根拠を示せるという点は、遠読が持つ固有の強みである。

一方、一度作ったデータセットが「さまざまな目的に使える」という点は慎重に読む必要がある。顔コレが美術史研究・顔認識研究・GANによる生成研究など複数の用途に使えるのは事実だが [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]、データセットを作る際の分類や切り取りの選択が、後から問える問いの範囲を規定している。この点は「データモデリングと構造化」で扱われる。

「どこから撮ればよいかを判断できる」というような現場の判断は、データの量では補えない。都市景観の分析を「digitally-enabled criticism」と呼ぶ立場は、デジタルの規模的処理と批判的読解を切り離さず、技術的な手法を批評的な実践の道具として位置づける [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。遠読と精読は対立するものではなく、どちらを先にするかという順序の問題でもない。

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3.2 データモデリングと構造化

資料をデータにする行為は、何を実体とし、何を属性とし、何を関係とするかという選択を伴う。その選択は、後で何を問えるかを決定的に左右する。

何を実体とし、何を関係とするか

データモデリングの第一の問いは、対象世界のどの要素を独立した実体として立て、どの要素を別の実体への属性や関係として扱うかにある。同じ「人物と場所のつながり」を、「人物」という実体に「出身地」という属性を付与するか、「人物」と「地名」という二つの実体のあいだに「出身」という関係を張るかで、後から問える問いの種類は変わる。前者は属性値を返すクエリには強いが、地名を軸にした集計や別の人物・事物との結合には弱い。後者はグラフ的な問い——「この地名と関係を持つ人物を列挙せよ」——に応えやすくなる。この選択の含意については「知識グラフとリンクトデータ」を参照。

オントロジーはこうした選択に明示的な枠組みを与える道具である。バム遺跡の3次元復元プロジェクトでは、資源をクラスとして体系化して記述するオントロジー的なメタデータの付け方を採用し、Dublin Core などの標準語彙を組み合わせ、Protégé によってオントロジーを編集・管理した [UC-020 §メタデータの管理と公開]。語彙とスキーマの選択については「メタデータ」を参照。

本文から切り離して注釈を持つ設計

構造化のもう一つの基本的な選択は、注釈や解釈を本文(一次資料の内容)に埋め込むか、切り離して外部から参照させるかである。埋め込む設計は記述が単純になる半面、同一箇所に複数の解釈が競合するとき、あるいは解釈を後から撤回・更新するときに、元の資料と注釈の境界が曖昧になりやすい。切り離す設計は、資料それ自体の改変を避けながら複数の注釈レイヤーを重ねられる。どちらを選ぶかは、誰が注釈を付け、それを誰が更新し、原資料との関係をどう保証するかという運用上の問いと不可分である。

この設計の選択は、格納の技術的な実装より先に——設計の段階で——行われる必要がある。格納の技術については「データの格納と情報基盤」を参照。

構造を決めることは解釈を含む

データモデルの設計は中立な手続きではなく、対象についての解釈を埋め込む行為である。バム遺跡の事例が示すように、欠損した部分をどう補うかはペルシャ建築として妥当かという専門的判断を必要とし、その判断がモデルの構造に刻まれる [UC-020 §モデリングとレンダリングの分担と精度・コストの調整]。建築の知識を持つ専門家がモデリングを担い、コンピューターの専門家がレンダリングを担う分業に改めることで、初めて対象に即した構造が作れるようになったという経験は、データモデルの設計が「形式的な作業」ではなく「解釈を含む実践」であることを端的に示している [UC-020 §モデリングとレンダリングの分担と精度・コストの調整]。

精度とコストのトレードオフもまた、モデル設計における解釈的決断である。重要な部分を手作業で正確に、重要度の低い部分を自動化でコストを抑えて処理するという使い分けは、「この要素をどの精度で記述するか」という問いに答えを与えており、それ自体が資料のどの部分に認識論的な重みを置くかの表明になる [UC-020 §モデリングとレンダリングの分担と精度・コストの調整]。

設計に含まれる解釈の問題は、テキスト系の資料でも同様に生じる。テキストの構造化(TEI 符号化を含む)については本ガイドラインでは扱わない。データ整備の記録をどう残すかは「データを整える」を参照。

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3.3 データの格納と情報基盤

データモデリングで決めた構造をどこに格納し、どう配信するかという選択は、プロジェクトの規模・用途・将来の拡張性に直結する。格納先は表計算形式から関係データベース、空間データベース、グラフストアまで幅広く、何を API として外部に公開するかという問いとも切り離せない。

格納先の選択肢と用途の対応

小規模なプロジェクトや、機械処理の前段として画像領域とメタデータを紐づける作業では、CSV や Excel などの表計算形式が事実上の出発点になることがある。画像の部分領域を切り出してメタデータを付与した結果を Excel でリスト化し、後からプログラムで外部システム向けの形式に変換するという運用が報告されている [UC-001 §ICPの高度な利用]。この形式は可搬性が高く初期コストが低い反面、クエリの表現力と同時編集の堅牢性に限界がある。

より複雑なクエリや多ユーザー環境では関係データベースが選ばれる。地理情報を含む場合は PostGIS などの空間データベースが加わる——地理データに固有のファイル形式と配信については「地理データの形式と公開基盤」を参照。実体と実体の関係が複雑になるケースでのグラフデータベースやリンクトデータへの格納については「知識グラフとリンクトデータ」を参照。実体・属性・関係の切り分けがどこで行われるかについては「データモデリングと構造化」を参照。

JSON を中間層として置く構成

格納形式と配信形式の間に JSON を中間層として置く構成は、IIIF を使うプロジェクトで具体例が報告されている。JSONkeeper が JSON 形式のデータを保存・提供するサービスとして機能し、Canvas Indexer がそのデータをクロールしてキャンバス単位に分解・索引化することで、ビューアや検索サービスの背後にあるデータベース層を担う [UC-001 §ICPの高度な利用]。この層に機械学習によるタグ付けサービスを連携させ、顔画像を検索するといった拡張も実施されており [UC-001 §ICPの高度な利用]、JSON を中間フォーマットとして挟む設計がシステムの組み換えを容易にしている点が観察できる。

何を API として配信するか

格納したデータを外部に公開する際、API の設計は再利用可能性を決める。IIIF マニフェストを画像配信の API として用いると、ビューアや外部システムがそのまま接続できる。一方、標準 API が対応しきれない場面では独自拡張で対応した事例がある。時系列画像のアーカイブでは、「前」「次」が「ページ」ではなく「時間」の移動になる要件に対して、Timeline API と Cursor API を独自に拡張して実現した [UC-001 §IIIF画像の閲覧]。ただし、独自拡張は対応したビューアでしか表示できないというトレードオフを生む [UC-001 §IIIF画像の閲覧]。標準への準拠と独自要件への対応の間の緊張は、格納層だけでなく API 層の設計でも生じる。

後から変えることの難しさ

格納形式と API の選択は、後から変えるコストが高い。表計算形式を関係データベースへ移行するときのスキーマ設計の見直し、グラフ構造への再モデリング、あるいは独自 API 拡張に依存した下流システムの修正は、いずれもプロジェクトの途中で着手すると影響範囲が広い。格納先の選択は、データモデリングの段階で想定されるクエリ・規模・配信要件と合わせて検討することが望ましい。構造の決定が後で何を問えるかを制約する側面については「データモデリングと構造化」を参照。

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3.5 メタデータ

データを記述する語彙には、標準的なスキーマに従う固定的なものと、目的に応じて柔軟に設計するやわらかいものとがある。この二つの間をどう渡り歩くかが、DH実践におけるメタデータ設計の中心的な問いになっている。

かたいメタデータとやわらかいメタデータ

北本朝展氏は「かたい(固定的な)メタデータ/Hard Metadata」と「やわらかい(可塑的な)メタデータ/Soft Metadata」という対比を提示した [UC-021 §かたいメタデータとやわらかいメタデータ]。かたいメタデータは標準的な共通スキーマに基づいて作成し、標準化によって相互運用性を担保する。一方 やわらかいメタデータは、目的に応じてスキーマを柔軟に使い分け、記述語彙が多少異なっていても生成AIが両者をつなぐことで相互運用性を確保するという発想に立つ。事前の標準化合意を要しない分、標準では捨てられてしまう多様な情報を取り込める点にメリットがある [UC-021 §かたいメタデータとやわらかいメタデータ]。

ただし、生成AIが橋渡しできるのは同義語や表記の揺れといった「浅い意味でのギャップ」に限られ、深い概念的・解釈的なギャップは橋渡しできないと北本氏は補足している [UC-021 §AI時代におけるメタデータの再考と今後の展望]。この限界を踏まえると、かたいメタデータとやわらかいメタデータは代替関係にはなく、役割が異なる。流通を重視するシステムは固定的なスキーマで標準化を進め、発見(ファインダビリティ)を重視するシステムではやわらかいメタデータと生成AIによる多様化が有効になる [UC-021 §AI時代におけるメタデータの再考と今後の展望]。

バム遺跡の3次元復元プロジェクトでは、かたいメタデータの側が実践された。Dublin CoreやObject IDといった標準語彙を組み合わせてオントロジーに基づくメタデータを記述し、Protégé・RDFストア・Apache Jenaという標準技術のスタックで管理・公開した [UC-020 §メタデータの管理と公開]。このアプローチは構造と語彙の選択を先に決めるものであり、詳細は「データモデリングと構造化」節が扱う。

スキーマの選択とどこまで書くか

メタデータをどのスキーマで書くかは、誰のために何を担保したいかによって変わる。北本氏の整理によれば、メタデータには基本・内容・来歴・管理・利用の5種類があり、相互運用性を重視するか、ファインダビリティを重視するか、あるいは後から研究者が再利用する形を重視するかによって、どの項目に力を入れるかが変わる [UC-021 §メタデータをめぐる論点:利用者・項目・専門性]。

どこまで書くかという問いは、「メタデータを目的とみなすか手段とみなすか」という立場とも結びついている [UC-021 §メタデータ付与の自動化と「目的か手段か」]。メタデータを目的とみなすライブラリアン的な立場では、解題のように周辺知識を含めれば著作物性を帯びることもある詳細な記述が志向される。手段とみなす研究者的な立場では、検索できればよいという割り切りになる。同じ資料に対して、どちらの立場から設計するかでスキーマの深さも選択される語彙も変わる。

統制語彙に基づくかどうかも、「どこまで書くか」の一側面である。統制的な内容メタデータでは、候補からどれを選ぶかのルールが存在する。非統制的な内容メタデータ(要約など)は「正解」が存在せず、多様な解が成立する。後者では、先に書くべき範囲を決めようとしても合意コストが高く、記述を諦めてきた情報が多い [UC-021 §メタデータ付与の自動化と「目的か手段か」]。

生成AIがやわらかいメタデータを作る

非統制的で「正解」のないメタデータに対して、生成AIは記述コストを大きく下げられる。古典籍サービス「つくし堂」では、書誌メタデータとKuroNetによるOCRテキストを入力として、要約・タグ・キャッチコピーをAIが生成する [UC-021 §つくし堂:AIによる古典籍メタデータの生成]。3,000点以上の資料すべてにキャッチフレーズを付けることは専門家の人手では現実的でなく、正解がなく多様な解が成立する記述にこそ生成AIがゲームチェンジャーになるという見立てがここに表れている [UC-021 §つくし堂:AIによる古典籍メタデータの生成]。ただし、AIが生成した関係記述はもっともらしく見えるためハルシネーションの確認が難しく、専門家から見れば細部に疑問が残る可能性があるとも北本氏は率直に述べている [UC-021 §つくし堂:AIによる古典籍メタデータの生成]。

生成AIがやわらかいメタデータを扱う際の技術的な要は、コンテキストエンジニアリングである。現在の大規模言語モデルはコンテキスト(入力データ)に良い参考情報を、プロンプトに良い指示を与えれば優れた出力を得られるテキストプロセッサーとして機能する。ただしコンテキストの長さには限りがあるため、いかに良い情報を詰め込むかが実務的な課題となる [UC-021 §Mahalo Button:データ利用事例の蓄積と活用]。

利用事例をメタデータとして蓄積する

従来のメタデータが「何のデータセットか(WHAT)」「なぜ作られたか(WHY)」を中心としてきたのに対し、「Mahalo Button」と「Mahalo Research」は、データセットの利用事例を新たなメタデータとして蓄積・活用する試みである [UC-021 §Mahalo Button:データ利用事例の蓄積と活用]。データセットの作成者は自分のデータがどう使えるかを把握しきれず公開メタデータに書けないことが多いが、実際の利用事例を集めることでその記述が充実する [UC-021 §Mahalo Research:やわらかいメタデータによるデータセット発見支援]。

この設計で注目されるのは、情報を最初にまとめて落とさず、リッチな生テキストとして保持しておく方針である。情報をまとめた時点ではなく、利用する時点で構造化や形式変換を行うことで、さまざまな問いに答えられるようになる [UC-021 §Mahalo Button:データ利用事例の蓄積と活用]。このアプローチは、かたいスキーマに先に収めることで情報が脱落するという問題を、後処理に委ねることで回避するものとも読める。

生成AIのための「HOWメタデータ」という提案

北本氏が現在取り組む新しい試みが、従来はほとんど構造化されてこなかった「どのように使うか(HOW)」に関する Operational Metadata の整備である。ファイル形式と読み込み方法、列定義(名前・型・単位・値の意味)、ファイル名パターン、API使用例、注意点・制約といった細かい情報を含む [UC-021 §生成AIのための「HOWメタデータ」]。この分類はまだ暫定的なものと北本氏自身が断っているが、Descriptive Metadata(WHAT)・Contextual Metadata(WHY)・Operational Metadata(HOW)という三分類として示されている。

HOWメタデータの実用上の意義は、プログラムの自動生成につながる点にある。データセットのメタデータとそれを読み書きするライブラリをコンテキストとして与えると、生成AIがデータを操作するPythonスクリプトを生成できる。従来のかたいメタデータだけではこの使い方は難しく、HOWにあたる情報を追加することが前提となる [UC-021 §生成AIのための「HOWメタデータ」]。ここに、メタデータの語彙をどう設計するかという問いと、生成AIの活用がどう連動するかという実践的な接点がある。

AIと人間の役割分担とメタデータ設計の含意

かたいメタデータとやわらかいメタデータをめぐる議論は、AIと人間の役割分担の問いに行き着く。北本氏の整理では、標準化できない情報をまず脱落させ、人間が事前に構造化を頑張り、少ない情報をAIが活用するという「悪い役割分担」から、多様なデータをそのまま保存し、AIが得意な構造化をオンデマンドで実行し、人間が活用方法を柔軟に決定するという「良い役割分担」への移行が目標として示された [UC-021 §AI時代におけるメタデータの再考と今後の展望]。

この移行にはメタデータの再定義が必要だという認識は、スキーマをどう選ぶかという技術的な問いにとどまらない。かたいメタデータを最低限必要なものに絞り、それ以外は無理に標準へ収めず自由に書いてよいという考え方は、標準化の範囲そのものを問い直すものである。コンテキスト作成の準備は人間に残るが、整理の労力や使い回しの面での負担は大きく減る可能性があると北本氏は述べている [UC-021 §AI時代におけるメタデータの再考と今後の展望]。

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3.6 テキストから実体を取り出す

テキストに散在する地名・人名・年代といった実体を取り出し、辞書や知識グラフに接続する作業は、史料のデジタル活用において独立した工程を構成する。統計的な傾向を測る分析とは異なり、この工程が問うのは「どの実体が、どの外部データとつながるか」である。

「取り出す」と「辞書につなぐ」の二段階

テキスト中に出現する地名と住所を自動的に抽出し、辞書中のエントリにリンクするソフトウェアとして GeoNLP がある。住所解析のエンジンとして jageocoder が組み込まれており、地名辞書を拡張すれば適用範囲を広げられる設計になっている [UC-031 §現代の住所を対象とした応用事例]。

この二段階は実際には分離しにくい。取り出した文字列をどの辞書エントリに対応させるかは表記の問題を含むからである。省略されて書かれた住所、区と町名の間に入る地域名の脱落、異体字の使用といった、現実のデータに頻出するズレに対処するため、表記揺れ・異表記辞書が用意される。この辞書は、現実に出てくる住所を住所データベース中のエントリに一件ずつマッピングする対応を記述したもので、たとえば「東京府東京市小石川區大塚辻町」を「東京府東京市小石川區小石川大塚辻町」として扱うよう指定する [UC-031 §旧東京市15区住所データセットの構築]。辞書エントリを拡張するか元データを修正するかは、どれだけ例外的かという観点から判断する微妙なバランスの上に成り立っている、という指摘もある [UC-031 §旧東京市15区住所データセットの構築]。地名辞書の構造と異体字の詳細な扱いは「地名という接点」を参照されたい。

変換できた範囲と変換できなかった範囲

テキストから取り出した実体が外部データに接続できる保証はなく、変換できた範囲と変換できなかった範囲を区別して扱うことが求められる。

『日本歴史地名大系』地名項目データセットの位置推定では、平成の大合併以前の住所が含まれるため、そのまま現代のジオコーダーに入れても位置が特定できない。大合併以前の住所に対応する現代住所の候補を jageocoder で探したうえでジオコーディングし、推定緯度経度として地図上にマッピングするという手順が取られた。自動化できる部分もある一方、手動で対応しなければならない部分が多く残るという評価が報告されている [UC-031 §現代の住所を対象とした応用事例]。

住所の書かれ方が断片的なケースも現場では頻出する。発電所データの地図化では、字レベルの細かい住所が多く、一般的な地図サービスでは検索できないものが含まれる。「国有林」のような記述しかない場合は、正確な位置の特定に限界がある [UC-031 §現代の住所を対象とした応用事例]。取り出した実体が位置情報に変換できる割合は、データの性質と辞書の整備状況によって大きく変わる。

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3.8 可視化の技法

地図を作ることは、何を見せるかを選ぶことである。この選択が、図として表現された主張を形作る。

図の選択が主張を決める

地図は現実世界のコピーではない。地上の特徴のうち何を取り出し、何を省き、どう強調するかという選択の産物である [UC-009 §地図とは何か]。衛星画像が解像度の許す限り地上を網羅的に記録するのに対し、地図は利用者にとって重要な部分を取り出し、それ以外を省略・加工した表現である。道路を実際より太く描いたり、重要度に応じて色を変えたりする強調が行われる。日本の地図には駅が必ず描かれるが、鉄道を重視しない国の地図では駅が省略される、という差がそのまま表れる [UC-009 §地図とは何か]。

「省略によってコンパクトにする」操作は、単なる縮尺の問題ではない。何を残して何を消すかが、その地図が何を主張するかを決める。1933年に Harry Beck が作成したロンドン地下鉄路線図は、路線を縦・横・斜めの直線だけで描き、実際の経路の形も駅間の距離も正確に反映しない。地理的に正確でないが、路線内の駅の順序・乗り換え位置・テムズ川の相対的な位置関係は保たれており、「地下鉄に乗って移動し乗り換える」という目的に対して最も使いやすい表現になっている [UC-009 §地図とは何か]。距離の正確さよりも、目的に対して必要な情報の構造を可視化することにこそ、地図の本質がある。

どの図を選ぶかは、何を主張することになるかを選ぶことでもある。分布を面で示すか、点の密度で示すかで、同じデータから異なる空間パターンが浮かび上がる。可視化は中立な表示ではなく、データモデルについての立場を取ることである(データのどの側面を実体として扱い、どの側面を背景に退けるかというモデリングの問いについては「データモデリングと構造化」を参照)。

地理データを地図に描く際の表現の選択

GIS は、地図を表示するだけでなく、地図を作り、情報を加え、レイヤーを組み合わせて可視化・分析する機能を持つ [UC-009 §地理情報システム(GIS)とデータ構造]。道路レイヤーをオフにすれば道路が消え、建物レイヤーをオフにすれば建物が消えるように、何を重ねて見せるかを操作できることが、地図作成を選択の行為として明示する。

あるものを点として表現するか面として表現するかは、それを「場所」として扱うか「領域」として扱うかというモデルの選択である [UC-009 §地理情報システム(GIS)とデータ構造]。点は店舗や学校のような場所(POI)、線は道路、ポリゴンは行政区画の境界として表現されるが、地図に描かれた図形の種類そのものが主張を持つ。ベクタとラスタという二つのデータモデルが地理データの形式としてどう選ばれるかについては「地理データの形式と公開基盤」を参照。

空間補間も同様の問題を含む。センサーの置かれた地点のデータから、センサーのない場所の値を推定するために TIN(Triangulated Irregular Network)のような面構造が使われる [UC-009 §地理情報システム(GIS)とデータ構造]。補間によって得られた値を地図に描けば、観測されていない場所の「あるべき値」を可視化することになる。どの補間手法を選ぶかが、描かれた分布のかたちを決める。

歴史資料を地図化するときの表現力と限界

歴史資料から住所を取り出して地図に描く作業は、可視化が何を主張できるかを問う実践的な場面を提供する。関東大震災の死亡者住所を地図化した事例では、約3万8千名分の「震災死亡者調査表」の住所をジオコーディングし、空間分布として可視化することで、被害の地理的パターンを探った [UC-032 §はじめに]。

地図化によって浮かび上がったのは、本所区と深川区の特殊性である [UC-032 §死亡場所・人口密度からみた本所区・深川区の特殊性]。しかし重要なのは、地図が示したことと示せなかったことの両方である。本所区では死亡場所の記載が「本所区」という区止まりのものが95%を占め、深川区でも「深川区」のみが88%を占めた。住所分布を地図に描いても、この二区については区内のどこで亡くなったかが点として定まらず、空間分布の粒度に限界がある。これに対し他の区では居住地での死亡割合が相対的に高く、神田区67%、下谷区43%など、地点として地図上に描くことができる [UC-032 §死亡場所・人口密度からみた本所区・深川区の特殊性]。

区別の死亡率(死亡者数÷大正9年国勢調査人口)を見ると、本所区が10.7%で突出して高く、深川区1.9%、浅草区0.9%と続く。人口密度の高い浅草区の死亡率が0.9%にとどまる一方、人口密度の低い深川区が1.9%を示すため、人口密度の高さは死亡率が高くなる背景ではあるものの直接の原因ではなく、地域・場所ごとの別の要因が人的被害に作用したと考えられる [UC-032 §死亡場所・人口密度からみた本所区・深川区の特殊性]。空間分布を地図に描くことで人口密度との単純な対応が崩れることが見えるが、その先の要因の解明は地図が答えるのではなく、地図をきっかけに問いを立て直す段階に移る。

可視化は結論を出す道具ではなく、問いを空間的に組み替える道具である。

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4 AI との協働

AI を研究に使うときの作法をまとめる。データを作る場面、問う場面、そして研究そのものの進め方が変わる場面。

4.1 AI でデータを作る

AI が生成した結果をデータとして扱うには、誤りが残ることを前提とした工程設計、人が関わる箇所の明示、そして AI が作ったものであることを記録・開示する仕組みが必要になる。何を作らせるかは対象ごとの節に委ねるとして、本節はその作法——誤りとどう付き合うか、工程をどう設計し改善するか、開示をどう行うか——を扱う。

素材の品質が出力の品質を決める

DiHuCo ガイドラインシステムにおける記事生成では、録音から起こした文字起こしと講演資料の両方を素材として与えることで、講演資料だけから作る場合よりも出力の品質が大きく上がるという観察が報告されている。[UC-034 §記事生成のワークフロー] 口頭の説明には話し手が何を強調しているかが表れており、記事の重点を取りやすくなるためだという。[UC-034 §記事生成のワークフロー] このことは、AI に作らせる前の「素材の準備」が出力の質を左右する最初の介入点であることを示している。素材と出力の品質の関係を把握しておくことが、工程全体の設計の起点となる。

幻覚——素材にない情報を書き加える問題

記事生成と AI レビューの両工程に共通する課題として、生成 AI が素材にない情報を書き加えてしまう問題がある。[UC-034 §記事生成のワークフロー] この現象は一般に「幻覚(hallucination)」と呼ばれ、生成した文章が流暢であっても内容が根拠を持たない場合がある。

この問題への対処として、DiHuCo ガイドラインシステムは工程のなかに複数の確認段階を置いている。AI が生成した記事を AI がレビューし、さらに講演者本人が内容を確認してから知識ベースへの登録を行う手順がそれにあたる。[UC-034 §記事生成のワークフロー] 同時に、素材に齟齬がある場合は講演資料を優先するというルールを工程内に定めており、[UC-034 §記事生成のワークフロー] 素材の範囲を超えた生成を抑制しようとする設計になっている。

誤りが残る前提での工程設計

講演者本人による確認を経てもなお、AI が生成したデータには誤りが残り得る。このことを前提として工程を設計することが求められる。

DiHuCo ガイドラインシステムでは、検査で見つかった問題点を「編集レシピ」に反映し、以後の生成に活かす仕組みを置いている。[UC-034 §Agentic Publishingとは何か] 校閲係のエージェントが重複・食い違い・根拠の不足といった多観点から出力を検査し、支援係が修正を提案し、人間課が裁定して差し戻すと再ビルドや候補内修正が行われる。[UC-034 §Agentic Publishingとは何か] 問題を発見したら出来上がった結果に手を加えるのではなく、レシピ(工程の設計)を変えて作り直すという考え方は、北本氏が料理にたとえて説明している——素材から料理を作るノウハウがレシピであり、出来上がった料理に手を加えるのではなくレシピを変えて作り直すのだと。[UC-034 §編集レシピとAI生成構造]

なお、人間がどの深さで関与するかという枠組み——Human-in-the-loop・Human-on-the-loop・Human-out-of-the-loop の三類型と、研究者が指揮者として責任を負うという整理——は「エージェントと研究の作法」を参照されたい。本節の関心は、その三類型のどれを選ぶにせよ、AI が生成したものを扱う際に必要となる作法にある。

何を書き、何を書かないかを構造で制御する

幻覚の問題は、生成した後の検査だけで対処するのではなく、生成の前に書くべき範囲を構造として指定することでも抑制できる。

DiHuCo ガイドラインシステムの AI 生成構造では、各節に識別子・何を述べるかの指示・検索語・扱わない範囲の指定を記述し、それに基づいて知識ベースを検索して関連情報を抽出する。[UC-034 §編集レシピとAI生成構造] たとえば「地図とは何か」を述べる節に「GIS には触れない」という範囲指定を置くことで、隣接するが別節が担う事項への踏み込みを構造の側で制限している。[UC-034 §編集レシピとAI生成構造] 生成の指示を精密にすることで、素材にない情報が混入する余地そのものを狭めようとする設計である。

AI が作ったものであることの記録と開示

AI が生成した成果物については、誰が(あるいは何が)それを作ったかを記録し、開示することが求められる。

DiHuCo ガイドラインシステムでは、記事のメタデータとして生成に用いたモデル・プロンプト・素材ファイル・生成日時を記録している。[UC-034 §記事生成のワークフロー] 記事末尾には「この記事は、講演記録を基に生成 AI を利用して作成したユースケース記事です」と明示し、生成に関わった工程情報を generation_metadata ブロックとして保持している。[UC-034 §記事生成のワークフロー]

版の管理も開示の一部をなす。作業版(Draft)は常に更新され AI によって内容も書き換えられるため引用には向かないとされ、候補版(Candidate)は作業版を凍結した版で、承認版(Approved)はコミュニティの承認を得た安定した引用可能な版とされる。[UC-034 §ガイドラインの版と権利] どの版を参照するかによって信頼性の前提が異なるため、版の区別を明示することが読み手への誠実さの一部となっている。

AI が作ったものの権利の所在

AI が生成した部分の著作権については、論点として残ることが指摘されている。記事を元に AI が再構成して執筆した部分には著作権が生じないのではないか、一方で構造は人間が指定したものであり編集部分には著作性があるとも考えられる、と問いが示されている。[UC-034 §ガイドラインの版と権利] DiHuCo ガイドラインシステムでは全体を CC BY-NC 相当のライセンスで公開する方針をとっているが、著者は誰か、権利はどこに宿るかは今後の議論が必要だとされている。[UC-034 §ガイドラインの版と権利] AI でデータを作る実践が広がるにつれ、この問いは避けられなくなる。

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4.2 AI で問う・読む

文献を「読む」という行為を工程に切り分け、各工程に適したモデルと資料を当て、人間の判断を介しながら翻訳・註釈へ至る——この設計の考え方が、DH における AI 活用の一つの軸として現れている。

「読む」を工程に切り分ける

翻訳は文字列を言語間で置き換えるだけの作業ではない。塚越柚季氏は読解の工程を五つに整理した。字を読むこと、誤りの向こうにある正しいテキストを読むこと、語形・構文を分析すること、文脈・背景を調べること、関連する別の文献を参照すること、である [UC-039 §文献を「読む」とはどういうことか]。現在の機械学習における翻訳が「置き換えのタスク」として設定されていることへの問いが、この整理の出発点にある [UC-039 §文献を「読む」とはどういうことか]。

この整理を受けて構築された VEDA AI は、読解の各工程を部品として組み立てたシステムである。取り込む(OCR・テキスト校正)、語形を読む(形態素解析・構文解析)、意味を調べる(辞書検索・コーパス検索・対話による読解)、翻訳・註釈を生成するという各コンポーネントが対応する [UC-039 §VEDA AI:読解の工程を部品に分ける]。一直線のパイプラインではなく、各工程を行き来しながら翻訳へ至る構成であり、途中の形態素解析や辞書検索の結果もそれぞれが出力として扱われる。人が各段階で誤りを修正して次へ渡すデータを改善し、その記録自体が将来の学習データになる [UC-039 §VEDA AI:読解の工程を部品に分ける]。

言語と対象に合わせてモデルと資料を差し替える

工程を部品として設計することの利点は、言語や対象文献を変えるときにモデルと資料だけを差し替えられる点にある。ヴェーダ語では OCR に専用の TrOCR-Vedic、形態素解析に ByT5-Sanskrit、辞書検索に CDSL を組み合わせる。日本語の古文であれば OCR は NDLOCR-Lite、形態素解析は MeCab と UniDic、辞書検索は JMdict となり、英語であれば VLM・spaCy・WordNet の組み合わせになる [UC-039 §言語ごとにモデルと資料を差し替える]。各工程で最適なモデルを選べれば同じ流れで扱えるため、最初の結果が粗くてもテキストを読みながら AI を育てていくプラットフォームになる、というのが塚越氏の目指す姿である [UC-039 §言語ごとにモデルと資料を差し替える]。

「意味を調べる」工程では、モデル内部の知識に頼らず辞書を引いて確認するという方針をとる。サンスクリット語の辞書には 1800 年代にさかのぼるものもあり、100 年以上の積み重ねの知識を取り込むことになる [UC-039 §VEDA AI:読解の工程を部品に分ける]。辞書の語義はそのまま採用されるのではなく、同義語の扱いや語義の選択は文脈から判断される——辞書自体を批判的に参照する工程として位置づけられている [UC-039 §VEDA AI:読解の工程を部品に分ける]。Digital Corpus of Sanskrit を用いた類似テキスト検索も対話の一部として組み込まれており、似たテキストを一緒に見ながら読み進められる [UC-039 §デモ:一つのテキストを段階的に読む]。

資料を AI が読める形に整える

AI が文献を処理できるようにするには、適切な形に整える前工程が必要になる。ヴェーダ語の場合、アクセント記号を保持した OCR モデルが刊本の行画像からローマ字転写を直接生成するが、誤認識が残る箇所もある。続いてアクセントの修正工程が欠落した位置を系列変換として復元する [UC-039 §ワークフローを支える個別の研究]。整備対象には、アクセントを保持し UD CoNLL-U に対応したヴェーダ語データ、原文・翻訳・註釈のデータ、一次文献・古代註釈・辞書・研究文献を RAG に接続する外部知識が含まれる [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。

データの整備は個人の取り組みにとどまらず、公開によって知識が積み重なる。塚越氏は OCR 用・アクセント復元用・対訳用のデータセットを Hugging Face で公開しており、実際に別の人が公開データセットで OCR モデルを作った事例があったという。ヴェーダ語が読めない人でも形式さえ整っていれば学習できることが、公開のメリットになっていたと塚越氏は振り返る [UC-039 §ワークフローを支える個別の研究]。

DiHuCo ガイドラインシステムでも、素材の整え方が生成品質に直結している。講演の文字起こしを加えた方が、講演資料だけから生成するよりずっと良い品質になる。口頭の説明には話し手が何を強調しているかが表れており、記事の重点を取りやすくなるためだと北本朝展氏は述べる [UC-034 §記事生成のワークフロー]。

翻訳ではなく解釈の表明として——註釈の生成

塚越氏が目指すのは、翻訳文の生成にとどまらず、翻訳とともに註釈を生成して翻訳判断の説明可能性を高めることである [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。古典研究における翻訳は単なる言語間の置換ではなく、テキストの背景や文化的文脈に基づく解釈の表明だからだ。語釈・文法・儀礼や思想の背景・文献間の関係が訳に影響し、註釈は解釈の過程を読み手へ開示する。生成 AI に必要なのは自然な訳だけでなく根拠のある訳だ、という位置づけである [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。

この目標に対して、訳してから翻訳判断を説明する順序、訳文と註釈を同時に生成する順序、先に語釈・文法・文献的根拠を整理して訳に反映する順序という三つを比較する実験が計画されており、どの順序が翻訳の妥当性・註釈の根拠性・専門家の評価しやすさを高めるかが問われている [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。

返ってきたものを専門家が評価する工程

AI の出力を専門家が確認・修正する工程は、読解システムの各段階に組み込まれている。VEDA AI では、一括処理も人間が一つずつ承認・修正する操作も選べる設計になっており、この承認の操作はコーディングエージェントの利用者には馴染みがあるかもしれないと塚越氏は述べる [UC-039 §デモ:一つのテキストを段階的に読む]。

翻訳・註釈の評価には BLEU や COMET に加えて、註釈の正確性・有用性・根拠性についての専門家評価を用いる計画である [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。専門家が評価・修正した結果をモデル改善へ戻す共有プラットフォームの構築が、BOOST 課題の三つの目標の一つとして明示されている [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。具体的には、専門家が註釈を書き換えて根拠資料と判断の履歴を残し、その修正を将来の再学習や few-shot 用のデータに使う設計になっている [UC-039 §評価・解釈共有プラットフォームと公開したい成果]。

DiHuCo ガイドラインシステムでは、生成された記事を AI がレビューし、続いて講演者本人が内容を確認するという二段階の確認工程がある [UC-034 §記事生成のワークフロー]。記事生成と AI レビューに共通する課題として、生成 AI が素材にない情報を書き加えてしまう問題が挙げられており [UC-034 §記事生成のワークフロー]、人間による確認がこの問題の歯止めになっている。

機械認識の結果と原資料を対照させる構成も、評価の一形態として機能する。くずし字認識の結果をビューア上の文字マーカーで表示して原文と比較しながら確認する仕組みや、機械が切り出した画像をマーカー表示モードで人手確認する構成は、人手だけでは扱いにくい規模へ作業を広げながら結果を原資料に照らして確かめることを可能にしている [BP-001 §機械の認識結果を人手の確認に戻す](詳細は「画像の流通基盤」を参照)。

問いの立て方——何をしているかを問う

個々のタスクの性能向上に加えて、そもそもどういったタスクが必要なのかが中心的な課題になってきていると塚越氏は指摘する。人間が読解をする上で何をしているのかを改めて考え直すことが、この課題の裏側にある問いだという [UC-039 §註釈を生成する翻訳モデルという目標]。

工程を分けて部品を差し替えられる設計にすること、辞書を批判的に参照する工程として位置づけること、専門家の修正を学習データへ還元すること——これらはいずれも、AI に文献を「読ませる」前に人間の読解とは何かを問い直した結果として現れている。翻訳を解釈の表明ととらえ、その根拠を支える註釈を生成するモデルを作ることがゴールとして掲げられるのは、この問いへの一つの応答である [UC-039 §はじめに]。

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4.3 エージェントと研究の作法

AIが自律的に作業を進めるようになったとき、研究者の役割は変わるのか、それとも消えるのか。北本朝展氏が「Agentic DH」と名付けた議論の核心は、この問いへの答えを探ることにある。[UC-035 §はじめに]

人間とAIの関わり方の三類型

人間とAIの関わり方には段階がある。北本氏はこれを三つの言い方で整理する。[UC-035 §人間とAIの関わり方の三つの類型と「指揮者」という研究者像]

Human-in-the-loop は、一つ一つの作業を指示して確認するやり方で、マイクロマネジメント(micromanagement)にあたる。Human-on-the-loop は、方向を示して委ね、結果を確認するやり方で、権限移譲(delegation)にあたる。Human-out-of-the-loop は、出てきた結果をそのまま使う丸投げ(abdication)にあたる。この順に人の関与は減る。AIができることが増えるにつれ、in-the-loop から on-the-loop へ移っていくというのが北本氏の見立てである。ただし人文学では、丸投げにあたる Human-out-of-the-loop はあまり成立しないのではないか、とも述べている。[UC-035 §人間とAIの関わり方の三つの類型と「指揮者」という研究者像]

この三類型は本節が本文書における定義箇所であり、他節はここを参照する。

研究者が「指揮者」になるとはどういうことか

三類型を踏まえて示されるのが、研究者は AIの「指揮者」であるという研究者像だ。指揮者は個々の楽器を弾けないかもしれないが、全体の音がどうあるべきかを理解し、全体として良い音楽を作り出す責任を負う。研究者も、個別の工程は AI に委譲しつつ、研究の全体を成功させ説明する責任を保持するという整理である。[UC-035 §人間とAIの関わり方の三つの類型と「指揮者」という研究者像]

指揮者像が含意するのは、権限の委譲と責任の保持が同時に成り立つという構造である。北本氏は、人文学の主体性を保つために必要なこととして、AIへの丸投げではなく的確な指示と対話のコントロール、そして AI の出力を批判的に評価する能力の育成を挙げている。[UC-035 §AI for Humanitiesに向けて] 指揮者はオーケストラを指揮しながら演奏の責任を負うように、研究者は AI が生成したものを批判的に評価しながら研究成果に責任を負う。エージェントに作業を委ねることは、その作業の帰結から手を引くことではない。

また、自分たちの研究に適した AI を開発する能力——すなわち AI 世界の内側に入り、AI が進化する方向に影響を与えること——も、指揮者としての研究者に求められる水準として北本氏は言及している。[UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]

著者性と査読が揺らぐ

エージェントが研究の実質的な部分を担うようになると、著者性の根拠が問われる。研究者のプロンプトには独自性があり、検証も行うが、それが著者性の「根拠」になるのかには疑問が残ると北本氏は述べる。[UC-035 §学術システムにかかるストレスと著者性の問い]

数学者の Gowers 氏は、AI 生成と人間の検証による成果を著者のいない論文として投稿できないかと考えたが、プレプリントサーバーの arXiv は条件を満たさなかったという。[UC-035 §学術システムにかかるストレスと著者性の問い] 人文学では人手による丹念な作業を著者性の根拠としてきたため、AI 支援による成果の評価は特に難しくなる可能性があると北本氏は指摘する。

査読の側にも圧力がかかっている。論文の「生産性」が向上して大量投稿が可能になり、質の低下も重なって、人間が査読するシステムが危機的な状況にある。機械学習の学会 NeurIPS でも AI を使ったレビューの実験が始まっている。[UC-035 §学術システムにかかるストレスと著者性の問い] AI が書き、AI がレビューする時代に学問の信頼性をどう確保するかが、未解決の問題として提起されている。

博士課程の指導とキャリアパスへの波及

AI が比較的取り組みやすい問題を解ける段階になると、研究を始めたばかりの博士課程の学生に取り組みやすい問題を与えるという指導の常道は選べなくなる——これは Gowers 氏のブログで指摘された論点であり、北本氏も引いている。[UC-043 §Agentic DHという視点]

数学研究に入ろうとする人への影響が特に大きく、自分の名前を定理に残せる時代は終わりつつあるかもしれないとも論じられている。[UC-035 §数学研究で進むAI for Science] これは数学に限らず、AIが担える領域で先行経験を積みながらキャリアを形成してきた従来の道筋を、研究の多くの分野で問い直す。学術システムの大変革は人材育成やキャリアパス、教育にも大きく影響するため、いまから対応を考えるべきだと北本氏は述べる。[UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]

一方で、世代差という論点も提示されている。デジタル化を推進してきた研究者にとって、AI 化への転回は方向の切り替えを要する。しかし最初からデジタル環境で研究を始めた人——とりわけ若い世代——は、アナログからデジタルへの変化を経験しておらず、転回しなくても自然に AI 化に進めるため、むしろ有利な面があるという。デジタル化を経由せず AI 化を進める新たな研究の可能性も開けると北本氏は述べる。[UC-035 §Agentic DHが込めたもう一つの意味]

デジタル化からAI化への転回という構造的変化

これまでの DH はアナログとデジタルの軸、すなわち計算可能性とアクセシビリティをどう高めるかという問いを扱ってきた。いま起きているのは人間と AI の軸での変化であり、エージェンシーを人間と AI のあいだでどう分担するかという配分の問題である。AI 化が一方向ではない点が、デジタル化との違いだと北本氏は整理する。[UC-035 §Agentic DHが込めたもう一つの意味]

「指揮者」という研究者像は、この変化に対する一つの答えだ。AI に権限を委譲しながら研究責任を保持し、出力を批判的に評価する能力を維持する——この構造が成り立つとき、研究者は Human-out-of-the-loop に陥らず、Human-on-the-loop の立場を保てる。Agentic DH という言葉には、AI エージェントを使う DH 研究という意味に加えて、主体性(agency)を人文学の側が保つという意味も込められている。[UC-035 §Agentic DHが込めたもう一つの意味]

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4.4 AI と社会

AI が研究と教育の場に入ることは、方法の問題であると同時に、社会との関係を問い直す契機でもある。学習と生成をめぐる法的な問い、言語資源と計算資源の非対称、そして人文学の主体性をどこに置くか——これらは技術の選択と切り離せない。

AI が何を見つけさせ何を見つけさせないか

AI が何を見つけさせ何を見つけさせないかは、学習データの構成に直接依存する。デジタル化されていない資料、デジタル化されていても公開されていない資料、規模の小さい言語や専門的な文献群は、大規模モデルの学習データにほとんど含まれない。北本氏がデジタル化からAI化への転回を論じる文脈で「デジタル化をやめるわけではない」と述べた言葉 [UC-043 §Agentic DHという視点] は、裏返せば、デジタル化されていないものはAI化の恩恵の外に置かれるという含意を持つ。古活字の分割と同定がエージェンティックな手法で前進しながら「他の本への一般化は今後の課題として残っている」事実 [UC-043 §知見と展望] は、学習データと手法が特定の資料条件に最適化されており、条件が変わるごとに対応が必要になる構造を示している。

計算資源と言語資源の非対称は、資料の偏りと並んで実践に直接的な影響を持つ。大規模モデルの開発と運用には資本集約的な計算資源が必要であり、その恩恵が及ぶ言語・文化圏は資源投入の規模と正比例する。人文学が扱う多様な言語・文字・時代の資料は、この非対称の構造のなかで不利な側に置かれやすい。

学生が AI を使うときに何を身につけるか

AIが比較的取り組みやすい問題を解ける段階にあるなら、博士課程の学生に取り組みやすい問題を与えるという指導の常道は選べなくなる。数学者によるこの指摘 [UC-043 §Agentic DHという視点] は人文学にも響く。学生がAIを使って翻刻や論考を生成できる状況では、「何を作ったか」より「何を問い、どう評価したか」が教育の焦点になる。

教える側に求められるのは、AIの使い方を教えることだけでなく、AIの出力を批判的に評価する能力、そして自分たちの研究に適したAIを選び開発する能力をどう育てるかという問いに向き合うことだと北本氏は述べている [UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]。また、AIへの丸投げではなく的確な指示と対話のコントロールが不可欠であるという点も、人文学の主体性を保つために必要な条件として挙げられている [UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]。

デジタル環境を出発点とする若い世代は、デジタル化からAI化への転回そのものを必要とせず、AI志向の新しい研究を直接始められる [UC-043 §Agentic DHという視点]。この世代への教育は、前の世代とは異なる前提から設計される必要がある。北本氏はこうした変化を、学術システムの大変革として人材育成やキャリアパス、教育にも大きく影響するものと捉え、今から対応を考えるべきだと述べている [UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]。キャリアパスへの波及の詳細については「エージェントと研究の作法」を参照。

人文学が AI の内側に関わること

AIを外側から批判するだけでは、AIが何を学び何を生成するかという水準には関与できない。北本氏は、AIの出力を批判的に評価する能力を育成できるか、さらにはAIが進化する方向に影響を与えられるかという点を問いとして立て、Anthropicが哲学者を採用してAI開発に関わらせている事例をその一例として挙げている [UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]。人文学の関与は、AIを使うかどうかという選択に留まらず、AIの開発と方向づけの水準にまで及びうる。

人とAIのエージェンシーの配分という問い、および研究者が指揮者としての責任を持つという整理については「エージェントと研究の作法」を参照。

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5 オープンサイエンス

作ったデータを研究者が自分で公開し、使われ続ける状態にするための実務をまとめる。

5.1 識別子とデータ引用

データを共同利用に開くための出発点は、何に識別子を振るかを決め、その識別子を軸に他のデータとつなぐことである。識別子がなければ表記の揺れは吸収できず、異なるデータセット間の結合も属人的な照合に頼ることになる。

「何を同じエンティティとみなすか」という設計の問い

識別子を振るとは、エンティティを定義することを先に意味する。エンティティを定義して固有のIDを与え、名称の表記揺れや粒度の違いを属性として吸収したうえで、識別子と属性の組をデータセット化して実世界との紐づけとデータ統合に利用する、という方針が、断片的な過去の空間情報を統合する基本として報告されている [UC-013 §識別子と属性によるデータ構築の基本方針]。

この設計の難しさは、対象が公式リストを持たない場合に際立つ。藩IDデータセットはその典型で、江戸幕府が藩を公式に定義していなかったという事情から、408という数字も付与した名称もデータセット側の判断である [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。名称の選択にあたっては、地名で呼ぶか家名で呼ぶかという二系統の揺れ、同名の松山藩が出羽・伊予・備中に三つ存在するといった問題があり、J-STAGEの論文数やWikipediaの用例という現代の利用実態も参照して代表名を決めている [UC-012 §藩IDデータセット]。「何を同じエンティティとみなすか」の基準がなければ識別子は機能しない、という逆向きの命題として読める事例である。

公式IDが存在しない期間への対応として、歴史的行政区域データセットは複数のデータセットを統合し、表記の同一性に基づいて1889年以降の市区町村に一意のIDを付与した(1968年以前には公式の市区町村IDが存在しないため)。各IDは代表的な位置(点)と時期ごとの境界(ポリゴン)を属性として持つ [UC-010 §歴史的行政区域データセット]。

識別子が表記揺れを吸収し、統合を可能にする

識別子の導入によって得られる実際の効果として、武鑑全集における寛政武鑑と安政武鑑の経時的な統合が報告されている。以前は表記が揺れていた藩名を、藩IDを介することで結合・統合できるようになった [UC-012 §藩IDデータセット]。また、藩IDと村データセットを統合すると、加賀藩が1,340,660石の石高を持ち、その領域が二つの主要地域に分かれ、さらに別の領主に属する村が「穴」として存在することが可視化できる [UC-010 §藩IDデータセットと村・藩の統合的な可視化]。石高が経済力に対応するため、どの藩がなぜ強大なのかという問いに可視化でアプローチできる点も、識別子が媒介するデータ統合の帰結として位置づけられる。

識別子の粒度と対象の関係についても設計上の論点がある。藩と大名家は一対一ではなく、大名家が藩を移ることもあるため、藩IDとは別に大名家IDが必要になり、当主の交代などのイベントをIDの変更として扱うならさらに複雑な体系が求められると指摘されている [UC-012 §藩IDデータセット]。識別子の体系をどこで切るかは、対象の歴史的な構造に規定される問いである。

位置が決まらないときの識別子設計

識別子を付与したいが位置を一点に決められない場合の対応として、Uber H3インデックスを利用して六角形で位置の範囲を指定する手法が採用されている。石川藩の陣屋のように候補が複数あって一つに絞れない場合、このIDは場所と六角形の大きさを一つの文字列で同時に指定できるため、ID自体に曖昧さのレベルが含まれる [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。「位置が確定していることを識別子付与の前提にしない」という設計方針として読める。

線・点の組み合わせによる移動経路の識別子設計

街道と宿場町への識別子付与は、線(道)と点(宿場)を組み合わせて移動経路を構造化する設計を示している。街道IDは高速道路ナンバリングに倣って五街道にR001〜R005を与え、宿場IDは駅ナンバリングに倣って東海道品川宿をR001-002とするように街道IDとの組み合わせで付与する。これにより人や物資の移動を「あるIDから別のIDへ」という構造で表現できる [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。

ただし街道には時期による移設や経路の違いがあり、IDを与えつつ説や時期に応じて複数の経路を割り当てられる柔軟な枠組みが望ましいという論点が質疑で示されている [UC-012 §江戸期地理データセット]。識別子の一意性と歴史的な経路の多義性をどう両立するかは、設計上の未解決事項として残る。

こうして付与したIDはGeoLODに登録し、ウェブとAPIを通じて属性表示・検索・共有が可能なかたちで維持される [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。

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5.3 公開できるもの・できないもの

デジタルデータを公開する際、すべての情報をそのまま開放できるとは限らない。個人情報・位置情報の精度・権利の状態といった属性によって、開放の範囲と方法を変える必要が生じる。

公開の可否を左右する情報の類型

個人を特定できる情報は、公開場面でもっとも慎重に扱われる類型の一つである。住所・氏名・生年月日のように、単独あるいは組み合わせで個人を特定しうる属性は、歴史的資料として収集されたものであっても、現存する人物や遺族への影響が生じうる。

人が写った写真や映像は、写り込んだ人物の同意の有無が問題になる。街頭や地域のフィールドワークで撮影された記録は、研究目的で収集されたとしても、写真に映る個人の意図と切り離すことが難しい。

位置情報は、空間的な精度によって公開可能かどうかが変わる類型である。正確な座標が特定個人の居住地や行動記録と結びついた場合、その精度自体が個人特定のリスクを生む。関東大震災死亡者のジオコーディング事例では、レベル4(区)止まりの地点を集計から除外し、100メートルメッシュで集計した結果を提示することで、個別の点の特定を防ぎながら空間的な傾向を伝えている [UC-032 §死亡者住所分布の可視化と全体傾向]。精度の段階を意識的に選ぶという考え方は、位置情報に限らず属性情報全般に応用できる。

権利が処理できていない資料については、ライセンスの選択や権利処理の手続きが判断の前提になる。詳細は「ライセンスの選び方と権利処理」を参照されたい。

全部を開けないときの段階的な対応

公開できない情報が含まれるとき、全か無かの二択ではなく段階的な選択肢がある。

記述だけを公開し、データ本体を非公開にする方法は、資料の存在を示しながら内容の公開を保留するものである。「このような資料が存在し、どのような性格を持つか」をメタデータとして開示しつつ、個別の記録は問い合わせ対応に限定するといった運用がこれにあたる。

精度を落として公開する方法は、情報の粒度を意図的に粗くしたうえで開放するものである。前述のジオコーディング事例では、1点が1人の死者を表す形でプロットされた約3万8千件を100メートル四方のメッシュで集計し直し、区止まりの地点は除外している [UC-032 §死亡者住所分布の可視化と全体傾向]。個別の点の特定を防ぎながら、本所区・深川区を中心とする被害の偏りという空間的傾向は伝えられている。年齢を十年刻みに丸めるといった対応も、同じ考え方の応用である。

範囲を粗くして公開する方法は、地理的範囲・期間・属性の絞り込みによって、識別リスクが高い部分を切り出して非公開にしたうえで残りを開放するものである。

これらは排他的な選択肢ではなく、組み合わせて用いることができる。

判断の理由を記録に残す

何を公開し何を非公開にしたかという決定と同様に、その判断の根拠を記録しておくことが、後の問い合わせに答えたり、状況が変わったときに方針を見直したりするための基盤になる。「公開しなかった理由」が残っていれば、将来の担当者が同じ論点を最初から組み立て直す手間を省ける。公開範囲を変更する際にも、当初の意図が記録されていることが参照の出発点になる。撤回や更新に関わる運用の詳細は「公開したあと」を参照されたい。

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5.4 公開したあと

公開はゴールではなく、長い後半戦の始まりに過ぎない。データセットが参照され続けるためには、更新と版の管理、リンクの維持、形式の陳腐化への対処、そして誰が何をしたかの記録が必要になる。地理・画像・三次元のデータはとくにファイルが大きく、形式の変化も速く、閲覧や配信に専用の仕組みを要するため、これらの課題がより切迫した形で現れる。

更新・版管理・撤回

データセットは公開後も修正や拡張が生じる。どの版がいつ公開され、何が変わったかの記録がないと、引用した研究者が後から同じデータを参照できなくなる。版に識別子を対応づけて引用可能にする設計については「識別子とデータ引用」を参照。

撤回も同じく記録の問題である。データを非公開に戻した場合、その事実と理由を残さないと、リンクが単純に切れたのか意図的に下げられたのかが判断できなくなる。公開可否の判断基準については「公開できるもの・できないもの」を参照。

リンクが切れること、形式が読めなくなること

公開したデータへの参照が時間とともに壊れていく経路は二つある。URL が無効になることと、形式が将来のソフトウェアで読めなくなることである。

URL の維持については、DOI や ARK のような永続識別子の解決サービスをどう長期にわたって運営するかという問いがあるが、この問いを正面から論じた記事は本節に紐づいていない。識別子の設計自体は「識別子とデータ引用」が扱う。

形式の陳腐化は、とくに三次元データで顕著に現れる。バム遺跡の三次元復元では、公開に際してメタデータをオントロジーに基づいて記述し、Dublin Core などの標準語彙と Object ID を組み合わせ、RDF ストアと Apache Jena による API を整備した [UC-020 §メタデータの管理と公開]。標準ベースの記述は、形式が変わった場合にもメタデータの意味を保つ方向に働く。一方でホスティング環境の変化には別の対処が必要になる。同プロジェクトではデータを公開していたが、そのサイトへのリンクはその後切れている [UC-020 §関連リンク]。長期公開の設計が整っていても、配信先の維持は独立した問題として残る。

誰が何をしたかの記録

データの来歴と処理の記録は、再利用と検証の前提になる。バム遺跡の事例では、オントロジーの設計を担った共同研究者の役割が明示されており、Protégé を用いたメタデータ作成のプロセスも記録されている [UC-020 §メタデータの管理と公開]。誰がどの処理をどの道具で行ったかを残すことで、後からそのデータを使う研究者は処理の信頼性を評価できる。

地理・画像・三次元のデータに固有の難しさ

ファイルサイズが大きい、形式の変化が速い、閲覧に専用の配信基盤が要る、という三点は、地理・画像・三次元のデータに共通して現れる。三次元データの具体的な形式と処理については「三次元の計測と復元」を参照。

配信の仕組みの側では、メタデータの標準化とともに RDF ストアや API のような技術基盤の整備が伴うことが、バム遺跡の事例から読み取れる [UC-020 §メタデータの管理と公開]。こうした基盤は、データを一度公開するだけでなく機械的に参照可能な状態で維持するために必要だが、その運用コストと担い手の確保については、この事例からは詳細が読み取れない。

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6 社会のなかの実践

研究が社会と接する場面をまとめる。まず研究を開くとはどういうことかを述べ、そのうえで分野ごとの実践を見る。

6.1 パブリック・ヒューマニティーズ

研究を専門家の外へ開くとき、届く先が増えるだけでなく、問いを立てる主体と研究の形そのものが変わる。誰が行為者になるか、専門性はどこに残るか——その問いへの答えは実践によって一様でない。

開くことで問いの立て方と参与の形が変わる

市民が景観を撮影して記録する活動では、参加することが同時に「読む」という営みになる。同一構図の写真を画素レベルで比較すると、人が気づかないような微細な変化が現れ、何が変わり何が変わっていないかを参加者が実感を伴って理解できる。この体験は写真を研究する人だけでなく、撮影に参加する市民にとっても固有のものだ [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。「スマホで三条 まちなみの変遷発見ラリー」のような取り組みでは、スマートフォンで気軽に参加できる形式がコミュニティアーカイブの一環として機能しており、写真を市民参加型の活動に用いるという意味でパブリック・ヒューマニティーズとして位置づけられている [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。

参与の入口の広さと読みの深さのあいだには張力がある。景観をうまく読み取る技術はその場所についての知識に依存し、場所をよく知っていれば撮影地点の判断は容易だが、知らなければ理解に時間がかかる [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。知識がなくても参加できる設計が問いへの参与の入口を広げる一方で、読みの精度は知識の差に引きずられる。開くことが「誰でも等しく問いに関われる」を意味しないことは、この張力が端的に示している。

嵯峨本の事例では、開くことの意味がまた異なる。17世紀の古活字を対象とした情報学的分析において、古いコンテンツを新しいプラットフォームに載せて文化遺産を再生することが、パブリック・ヒューマニティーズの新しいアプローチとして位置づけられている [UC-043 §知見と展望]。ここでは参加者が何かをするのではなく、研究の成果が届く形と届く先が変わることが「開く」の中身になる。

デジタルが変えた回路

写真や映像を「視覚的」であると同時に「空間的」な歴史資料として捉え、地理座標を通じて実世界と結びつけることで、視覚資料の収集と解釈を市民と分かち合う回路が生まれる [UC-016 §視覚的・空間的な歴史資料という視点]。空間的な文脈の中で視覚資料を批判的に読み解くこの営みは「digitally-enabled criticism」と呼ばれ [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]、テキストには現れない景観の細部を扱う専門的な技法でありながら、市民参加型の活動の文脈でも機能している。

研究が閉じた完成品として出るのではなく、進行中の問いを持ち出す形も開くことの一様式になっている。嵯峨本では、AIとの協働によって古活字の分割と同定が大きく前進しつつも、他の本への一般化や性能の改善は今後の課題として残っており [UC-043 §知見と展望]、研究の途上が公開の対象になっている。

AIが問い直す専門性の所在

AIにどこまでエージェンシーを委ねるかという問いは、専門性がどこに残るかという問いと重なる。Agentic DHという概念が問うのは、エージェンシーの配分が変わるとき研究者とは何をする人かということだ [UC-043 §Agentic DHという視点]。アナログとデジタルの軸が計算可能性とアクセシビリティを高める一方向の変化であるのに対して、人間とAIの軸はエージェンシーの配分を選ぶ変化として対置される [UC-043 §Agentic DHという視点]。

市民が参加し、AIが作業を担うとき、問いを立てるのは誰か、成果に誰の名が載るかという問いは、運営の手続きではなく研究の構造に関わる。将来の研究者はAIの「指揮者」になるという位置づけは、指揮者が楽器を調整して良い音楽を作る責任を負うように、研究者も多くの作業をAIに委ねながら研究を成功させる責任は手放さないという構造を示している [UC-043 §Agentic DHという視点]。この三類型と指揮者概念の詳細は「エージェントと研究の作法」を参照。

なお、デジタル化からAI化への転回が必要とされる世代と、デジタル環境から出発してその転回を必要としない若い世代とのあいだには非対称がある [UC-043 §Agentic DHという視点]。開くことが研究の構造を変えるとすれば、この世代差はその変化の速度と形を左右する要素になりうる。

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6.2 地域とともに進める

研究者が地域に出て、地域の人と何かをすることで、資料の読み直しと地域の自己理解が同時に進む。今昔写真のデジタルアーカイブを手がかりに、まち歩きの催し、ワークショップ、中学生との授業へと展開した実践は、「誰が教え、誰が学ぶか」という前提を繰り返し揺さぶってきた。

誰を誘い、何を持ち込むか

参加の設計は実践ごとに固有の判断を要する。京都市内の3つのまちづくり団体を対象とした実証実験では、約2時間のワークショップを「趣旨説明 → 現地でのメモリーグラフ体験 → アンケートと意見交換」という流れで設計し、14名が参加した [UC-005 §まちづくり団体を対象としたメモリーグラフの実証実験]。長崎のグラバー園では、街歩きイベント「スマホで古写真ハンティング」をGoogleフォームによる事前申込制で実施した。Googleフォームを操作できる程度のスマホ利用力を応募段階で確認する意図があり、位置情報オンへの合意も事前に取り付けた。「特に位置情報のオンに抵抗がある方が含まれると当日の運営が成立しない」という判断が、この事前合意形成の設計の根拠になっている [UC-030 §事前案内・配布冊子と街歩きの運営]。告知には新聞・公式SNS・公式HP・長崎市公式LINEを使い分け、最終的に平均年齢48歳・最高齢77歳・最年少10歳という幅の広い11名が集まった [UC-030 §イベントの企画と参加者募集]。

現地に何を持ち込むかも、実践ごとに工夫されている。グラバー園ではA4用紙2つ折りの散策冊子を配布し、アプリで紹介しきれなかった古写真の見どころをテキストで解説したうえ、参加者が持ち帰れる紙のお土産として機能させた [UC-030 §事前案内・配布冊子と街歩きの運営]。アプリが対応していない建物情報や周辺の見どころは、ガイドが紙のファイルで補った [UC-030 §事前案内・配布冊子と街歩きの運営]。大学生向けの京都のイベントでは、企画者自身がメモグラ・マネージャでプロジェクトを作成し、現地下見用と当日用を使い分ける形で準備を進めた [UC-005 §大学生による景観学習イベントの企画・実践]。

現地で何が起きるか——世代をまたぐ教え合いと引き出される記憶

まちづくり団体との実証実験で浮かんだのは、スマホの扱いは若者が得意で高齢者は苦手、逆に地域の知識は高齢者が豊富で若者は知らない、という交差する関係だった。この非対称が世代間のコミュニケーションのきっかけになりうるという指摘が、参加者から寄せられた [UC-005 §メモリーグラフの4つの意義]。

グラバー園の街歩きでも同様の構図が現れた。初めてのアプリで操作に時間がかかる参加者が出たとき、周囲が自然に教え合う場面が生まれた。本来は個人的な道具になりがちなスマホをめぐって学び合う空間が成立し、どこから撮ればよいかという情報が参加者同士のあいだで自然に共有され、うまく撮れた写真をお互いに見せ合う「共有・共感」も生まれた [UC-030 §ツアー形式の実施で得られた手応えと相互作用]。

参加者の記憶が現地で引き出される場面も複数報告されている。グラバー園のイベントでは、「以前この地域で暮らしていた」「親戚が通っていた」という参加者が書籍や資料にはない話で盛り上がり、70代の男性参加者の表情からは、アプリが回想法のように昔の記憶をたどる手がかりとして機能する可能性が垣間見えた [UC-030 §ツアー形式の実施で得られた手応えと相互作用]。ガイドスタッフからも、アプリに収録されていない情報や地元ならではの「ここだけの話」を伝える時間が生まれた [UC-030 §ツアー形式の実施で得られた手応えと相互作用]。

一方、京都の写真展では、来場者の記憶の断片を集めることができたものの、写真展形式では双方向のやり取りがないため情報の深度が浅くなりがちだという限界も確認されている [UC-005 §デジタルアーカイブを活用したイベントの開催]。

身体を現地に運ぶことでしか得られない理解があるという指摘は、複数の実践から共通して現れる。Googleストリートビューでも今昔比較はできるが、車で走りながら流して撮るのと、自ら構図を決めて撮るのとでは写真の持つ価値が異なり、現地でこそ土地の質感や細かな変化を感じ取れるという声が、まちづくり団体との体験から報告されている [UC-005 §課題と気づき]。景観をうまく読み取る技術はその場所についての知識に依存し、場所をよく知っていればどこから撮ればよいかを容易に判断できるが、知らなければ理解に時間がかかる [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。この非対称を逆手にとって、地域をよく知る人から学ぶ場をつくること自体が、参加の設計の芯にある。

参加者が主体になる構造

廣瀬隆人が整理した「地域を学ぶ」3つの側面——地域を科学的・体系的に捉えること、地域を暮らしやすく変えるエネルギーを育てること、自らの立脚地として地域と自分を結び直すこと——は、髙橋彰氏の実践全体の枠組みとして引かれている [UC-005 §景観と地域学習の捉え方]。景観写真から景観を読み解く体験が、この3つの側面につながると位置づけられている。

この枠組みが最も鮮明に現れたのが、飛騨市立古川中学校のマイプロジェクト(地域貢献の課外授業)として実施した4回のワークショップだった。撮影場所を探す「挑戦状・SOS」形式の活動から始まり、ゲーム形式での今昔写真収集、「マイタウントレイル」の作成、地域の人々を迎えたまち歩きへと積み上がった [UC-005 §飛騨古川での中学生との景観学習プロジェクト]。第1回では、大学生が特定できなかった写真を「SOS」として中学生に渡し、生徒が地域の人に聞き取りをして撮影場所を見つけてくるという場面があった——大学生が教える側ではなく、教わる側に回った瞬間である [UC-005 §飛騨古川での中学生との景観学習プロジェクト]。第4回の地域の人々とのまち歩きでは、中学生が自分たちの取り組みを発表し、実際に案内役を務めた。髙橋氏は「中学生だからといってできないことはなく、むしろこちらが教えてもらうことも多々あった」と振り返っている [UC-005 §飛騨古川での中学生との景観学習プロジェクト]。

大学生が企画から運営までを担った京都のまち歩きでも、「自分たちでルートや写真を考えることで、より深く地域について考えるきっかけになった」という企画者側の声が報告されている [UC-005 §大学生による景観学習イベントの企画・実践]。参加・企画のいずれの立場でも、地域への向き合い方が変わる経験になったという。

事業者・観光組織・学校との連携で生じること

グラバー園での実践は、観光施設が主催し学芸員が運営を担うかたちで進められ、50周年記念事業との接続があり、長崎新聞の取材も入った [UC-030 §事前案内・配布冊子と街歩きの運営]。観光施設としてオープン型のイベントを実施した経験が少なかったことから、事前案内を入念に行い、集合場所・参加費・注意事項をメールで送付する体制を整えた [UC-030 §事前案内・配布冊子と街歩きの運営]。

イベント終了後、写真の共有設定をめぐって参加者から相談が届いた。他の参加者がアップロードした写真が自分の画面に表示されることへの抵抗感で、不特定多数が参加するイベントでは写真を共有したい・したくないという感覚に個人差があり、一律の共有設定では対応できないことが分かった [UC-030 §写真共有機能をめぐる課題と対応]。この問題はアプリ開発者への連絡によって「非表示」モードの追加という形で対応された。観光組織との連携が、ツールの改善を引き出した事例でもある。

京都のまちづくり団体との実証実験では、古写真の収集と整理の手間、サーバー管理を含む費用・人手・責任の所在、被写体によっては周囲の風景が写らないといった素材選定の難しさが挙げられた [UC-005 §課題と気づき]。これに対し、収集や整理の過程そのものをまちづくり活動の一部として位置づける可能性が指摘されており、摩擦を活動の資源として読み替える方向性が示唆されている [UC-005 §課題と気づき]。

飛騨古川の実践では、大学・市役所・学校・NIIという複数の組織が関わり、共同研究者として立命館大学・新潟大学の研究者が参加している [UC-005 §飛騨古川での中学生との景観学習プロジェクト]。授業として成立させる責任を学校が負い、研究として成立させる枠組みを大学と研究機関が支えるという役割分担が、この体制を可能にしている。

記憶収集の形式をどう選び、組み合わせるか

写真展・インタビュー・トークイベントそれぞれに一長一短があることは、実践を重ねるなかで見えてきた [UC-005 §デジタルアーカイブを活用したイベントの開催]。写真展は不特定多数から記憶の断片を集められるが深度が浅くなりがちで、インタビューは深く収集できるが対象にできる人数は限られる。トークイベントは会場との双方向のやり取りのなかで参加者の一体感を生み、アーカイブの意義を伝えるのに向くが、情報の収集にはあまり向かない。どの形式も目的によって使い分けが必要であり、形式の選択それ自体が研究と催しの両立を左右する。

この選択は、研究として何を目指すかと、催しとして何を成立させるかを切り離さずに考えることを求める。髙橋氏の活動は「楽しむ・集める・考える・伝える」を循環させるサイクルとして構想されており、活動の結果としてアーカイブが整理されたり新しいアーカイブが生み出されたりする流れが重要だという指摘がある [UC-005 §知見と展望]。この構想は、催しとアーカイブ構築という研究目的を同一の設計のなかに置くことを意味している。

地域から受け取るもの

「こちらが教えてもらうことも多々あった」という髙橋氏の言葉は、研究の側が地域から受け取るものについての具体的な証言だ [UC-005 §飛騨古川での中学生との景観学習プロジェクト]。飛騨古川では、大学生が特定できなかった写真の撮影場所を、中学生が地域の人への聞き取りによって突き止めた。地域の知識がデータベースの空白を埋め、アーカイブ自体が豊かになる。

京都の実践でも同様の方向が見えていた。古写真の撮影場所を同定する作業には、北野線沿いのバスの車庫(もとは市電車庫)の存在を知っているといった地域の知識が鍵を握る場面があった [UC-005 §京都の鉄道・バス写真データベースの構築]。市電の専門家・文化財保護の専門家・京都市役所の職員が研究チームに加わり、写真の撮影場所を議論しながら同定を進めた体制は、地域の知識なしにアーカイブは成立しないという前提のうえに成り立っている [UC-005 §京都の鉄道・バス写真データベースの構築]。

グラバー園のイベントでも、「以前この地域で暮らしていた」「親戚が暮らしていた」という参加者が、書籍や資料にはない記憶を持ち込んだ [UC-030 §ツアー形式の実施で得られた手応えと相互作用]。現地に出て人を集めることで、資料体が持っていなかった情報の層が加わる。この流れを意図的に設計することが、研究として地域とともに進めることの意味の一つにある。

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6.3 防災と災害の記憶

災害の記録と記憶の継承は、時間が経つにつれて担い手が減り、記録の文脈が失われていくという構造的な困難を抱える。その困難に向き合うとき、アーカイブを「作る」作業と地域社会の活動を切り離さないことが、実践上の焦点になっている。

被災地に足を運ぶことが開く理解

記録を画面で閲覧することと、被災地に身体を運ぶことは、もたらされる理解の質が異なる。阪神・淡路大震災20周年の2015年に実施された取り組みでは、震災直後の記録写真をオープンデータとして公開し、現在の同じ場所を撮影する活動が現地で行われた。2015年1月17日にはインドネシア・アチェの参加者と、2月1日にはCode for Kobeのメンバーとそれぞれ実験を行っている [UC-004 §フィールドワークへの活用:メモリーハンティングと災害アーカイブ]。

この実践のなかで確認されたのは、震災を直接知らない子ども世代もアプリにすんなり馴染み、文章の説明を読むよりも実際に使う方が直感的に理解できるという点だ [UC-004 §フィールドワークへの活用:メモリーハンティングと災害アーカイブ]。現場に立って想像を巡らせること自体に意義があり、この活動はオンラインでは完結しない [UC-004 §フィールドワークへの活用:メモリーハンティングと災害アーカイブ]。被災のビフォーアフター写真を手がかりに現地へ赴くという形式が、防災教育の場面で震災を知らない世代に届く回路になりうることを、この実践は示している。同一構図撮影の技法的な詳細は「写真という資料」を参照。

活動サイクルとしてアーカイブを育てること

記憶の継承を考えるとき、アーカイブを一度完成させるという発想より、地域の活動そのものをアーカイブの生成源として位置づける発想の方が持続力を持つ。楽しむ・集める・考える・伝えるという要素を循環させるサイクルを描くことで、景観学習の活動からコミュニティアーカイブへとつながっていくことが展望として示されている。その視点の中心にあるのは、実世界である地域社会に軸足を置き、デジタルアーカイブされた資料をいかに実世界とつなぐか、という問いだ [UC-005 §知見と展望]。

資料がどれだけ整備されても、地域社会の活動と切り離されたままでは記憶の継承に届かない。活動の結果としてアーカイブが整理され、新たなアーカイブが生み出される流れが重要だという指摘は [UC-005 §知見と展望]、時間の経過とともに担い手が減っていくという問題への一つの応答でもある。記録が地域の文脈のなかで参照され続ける仕組みを活動サイクルに埋め込むことが、記憶をつなぎとめる回路になりうる。

収集した記憶を写真資料のメタデータの充実に活用できる可能性も示されており [UC-005 §デジタルアーカイブを活用したイベントの開催]、この点は災害アーカイブ固有の文脈でも有効な観点となる。記憶収集の形式——写真展・インタビュー・トークイベント——それぞれの強みと限界の比較については「地域とともに進める」を参照。

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6.4 文化遺産と国際協力

文化遺産をめぐる研究は、資料の所在地と研究者の所在地と遺跡の所在地が一致しない状態から出発することが多い。植民地期に持ち出された資料がヨーロッパの機関に保存され、現地の行政機関が別の記録を持ち、デジタル化された画像が第三国のサーバーで公開される。この分散を前提として、何が、どこに、いつあったのかを再構成することが、国際協力の実質的な内容になる。

分散した資料を前提とした協力体制の組み方

ドイツ=トルファン探検隊(1902〜1914年)が撮影したガラス乾板約1500枚は、ベルリン州立アジア美術館に保存されている。しかし何をどこで撮影したかという記録はほぼ失われており、刊行された報告書には地図がなく手書きの平面図のみで項目分けも不十分なため、個々の写真が何を写しているのか、それがどの遺跡に対応するのかを特定することがきわめて難しい状態にある [UC-008 §ドイツ=トルファン探検隊の古写真と遺跡同定の課題]。

この状況に対して組まれた体制は、日本・中国・ヨーロッパの研究者がそれぞれ異なる資料と文脈を持ち寄る構造だった。ベルリン州立アジア美術館は2009年以降に古写真の整理を始め、2010年前後からデジタル化を進めて大英図書館のIDP(国際敦煌項目)やベルリン州立博物館のアーカイブにもアップロードした [UC-008 §ベルリン州立アジア美術館との協力と古写真の整理]。現地ではトルファン地区文物局が協力して調査地への案内を担い、2017年からドイツ隊の調査地の捜索と同定が始まっている [UC-008 §ベルリン州立アジア美術館との協力と古写真の整理]。

国際協力が目的ではなく方法として必要になる場面もある。Tempel T'の壁画の位置の特定では、ドイツ隊の写真だけでは撮影範囲が足りず、より広い範囲を撮影していたロシアの探検隊の写真と照合することで同定を進めることができた [UC-008 §壁画の位置の特定(Tempel T')]。同じ遺跡を別の探検隊が別の角度から記録していたという事実が、単独の資料群では解けない問いを解く鍵になった。

災害による喪失に対しては、国境を越えた資料の召集が事後的な復元の前提となる。イラン・バム遺跡では2003年の地震の5日後に写真提供を世界に呼びかけ、衛星画像・写真・平面図・地形データ・人々の記憶など種類の異なるデータを統合して復元プロジェクトが進められた [UC-020]。現存しない対象を記録するには、どの単一の機関も持ちえない資料の集合が必要になる。復元モデルの技術的詳細については「三次元の計測と復元」を参照されたい。

現地調査が直面する多層の障壁

現地調査は研究上の問題だけでなく、政治的・環境的・運用上の制約を同時に抱える。

ゼロコロナ政策の直後という時期には、表向き受け入れ可能とされながらも外国人の調査が実質的に難しい状況が続いており、最終的には北京大学の支援によって調査が実現した [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。現地政府・現地大学・海外機関という三者の関係が、調査の可否そのものを左右するという構造がここに表れている。

環境面では、昼間の気温がおよそ50度に達するため調査できるのは夕方6時から夜10時の時間帯に限られた [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。ツールの運用においても、アプリのログイン認証に用いるGoogleのサインインが中国の通信環境では使いにくく、位置情報の記録には中国版の地図サービスを併用するという対応を取った [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。これらは「現地調査」という言葉が隠している多層の障壁であり、ツールの機能設計の問題だけで解消できるものではない。

「すでに失われた」という前提の誤り

長らく「すでに失われた」と説明されてきた遺跡が、実際には残っていた。これはこのプロジェクトが繰り返し直面した事実であり、誰も調査していないことが「存在しない」とみなされてきた状況を反映している [UC-008 §ドイツ=トルファン探検隊の古写真と遺跡同定の課題]。著名な大きな遺跡でも「もう何も残っていない」と現地の人に言われながら、実際には残っていたという場面もあった [UC-008 §報告書と現地記録の食い違い]。

遺跡が残っていても、景観が激変している場合には別の問題が生じる。勝金口(Sengim)では、かつての寺院址がぶどう畑に変わっていた。地域の人口が約10倍に増加し、食料生産のための土地転換が進んだ結果であり、高速道路の工事も進行中で、次に訪問したときには同じ写真を撮れなくなる可能性が高い状況だった [UC-008 §景観が激変した遺跡(勝金口)]。所在地の記録が失われれば発掘の手がかりそのものが消えるという点で、景観が消える前に位置を確定しておく記録の緊急性が指摘されている [UC-008 §景観が激変した遺跡(勝金口)]。

同定はしばしば、言葉による説明では届かない食い違いを写真で照合することで進む。ドイツ隊の報告書で5〜7世紀の仏教寺院とされた地点が、現在の現地の行政記録では19世紀の建物とされており、違うと言葉で説明しても理解を得られないため、証拠となる写真を突き合わせることでしか議論できないという場面があった [UC-008 §報告書と現地記録の食い違い]。古写真を用いた遺跡同定の方法論については「写真という資料」を参照されたい。

記録を誰に返すか

資料がヨーロッパの機関に持ち出されて100年以上が経つ。その記録を現代の現地調査に使うとき、調査者は現地の文物局に行きたい場所を依頼し、案内してもらい、撮影した写真をデータとして持ち帰る。一方、プリントアウトして持っていった古写真は現地の人が喜んで持ち帰ってしまうという場面があったと報告されている [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。この小さな出来事は、記録への関心と所有の感覚が現地の人々にもあることを示している。

調査の成果としては、各地の文物局・文管処・研究所との協力によって同定を進め、成果をベルリン州立アジア美術館との基礎データ整備へ還元する方向が示されている [UC-008 §調査の成果と今後]。ただし現時点で整理されているのは協力体制の形であり、記録の返還の判断や権原についての議論は、この事例から直接読み取れる内容ではない。「誰の遺産か」「記録を誰に返すか」という問いは、この調査が実践として提起しているが、答えとして定式化された議論はまだ紐づく記事に蓄積されていない。

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用語集

校訂

critical editing

複数の伝本や校異を突き合わせ、本文の異同を判断して整えること。翻刻が原文の忠実な 再現であるのに対し、校訂は編者の判断による本文の確定を含む。

関連: 翻刻

jageocoder

jageocoder

Python版ジオコーダー。日本の住所を緯度経度に変換する機能など、多様な機能を提供する。情報試作室の相良毅氏が開発するオープンソースのソフトウェア。

別名: Jageocoder

IIIF

International Image Interoperability Framework

画像やその他のメディアを相互運用可能な形で配信・記述するための国際的な枠組み。 Image API と Presentation API を中心に構成され、機関をまたいだ資料の閲覧・比較・注釈を可能にする。

別名: トリプルアイエフ・アイアイアイエフ / 関連: マニフェスト / 出典: IIIF 公式サイト

翻刻

transcription

歴史資料に書かれた文字を判読し、現代の活字に起こすこと。原文の字体・誤字も含めて 忠実に再現する点で、本文を整える「校訂」とは区別する。

別名: テキスト化・字起こし・翻字 / 関連: 校訂

マニフェスト

manifest

IIIF Presentation API において、1 つの資料(書物・巻物など)の構造とメタデータ、 構成画像(canvas)の並びを記述する JSON 文書。閲覧アプリはこれを読み込んで資料を表示する。

別名: IIIFマニフェスト・Manifest / 関連: IIIF

メタデータ

metadata

資料そのものではなく、資料を記述する情報(標題・作者・年代・所蔵者・権利など)。 発見・同定・相互運用の基盤となる。

別名: メタ情報・書誌情報

ジオレファレンス

georeference

現実の地理空間と空間データの位置を合わせる作業。画像単位やポイント単位などで合わせることができるが、特に画像から複数の地上制御点(Ground Control Point, GCP)を拾って、それらをマッピングするための幾何学的変換を計算する方法がよく用いられる。

別名: ジオリファレンス

付録

まだ書けていない領域

本ガイドラインは、あるべき構造を先に定め、そこに実践知を当てて書いている。当たらなかった場所を空白として残し、隠さずここに挙げる。いずれも本ガイドラインが扱うべき範囲の内側にあり、素材となる講演や記事が集まれば節として加わる。

上空からの観測 —— 衛星画像、過去の空中写真、合成開口レーダー。入手とジオレファレンス、時系列での変化の読み取り。古地図の処理と景観の変化を扱う節に隣接するが、観測されたデータを使う実践がまだ収められていない。

空間の分析 —— 分布の読み方、集計の単位、空間統計。空間的な問いをどう立てるか。関東大震災の死亡者分布のような例はあるが、方法として述べるには足りない。

移動・経路・軌跡 —— 街道や宿場、踏査の経路、まち歩きのコース。点や面ではなく線として空間を扱うこと。

空間の物語 —— 地図に語りを載せること。地図が示せるものと、示せないもの。

資料を画像にする —— 撮影、色の管理、解像度の選択、撮影記録の残し方。デジタル化の入口にあたる判断が、本ガイドラインにはまだない。

画像の検索と生成 —— 似た画像を探すこと。生成については AI の章が扱うが、探す側が空である。

AI を検証する —— 出力の根拠をどうたどるか、誤りをどう見つけるか、再現性をどう担保するか、何をもって良いとするか。AI を使う実践が増える一方で、検証の作法がまだ言語化されていない。

データをどこに置くか —— リポジトリの選び方、日本の研究データ基盤、置いたことになる条件。研究の現場で最も多く問われることのひとつでありながら、実践知として記録されていない。

プロジェクトの設計と協働 —— 範囲の決め方、工程、費用、データ管理計画、引き継ぎ。参加者を募り、教え、品質を保ち、貢献をどう記録するか。

上に挙げたのは、節として立てるだけの素材がまだ集まっていない領域である。これとは別に、節としては置いたものの、素材が足りないために本文中で「現時点で薄い領域」と自ら述べている節がいくつかある。そちらは該当箇所で直接確認できる。

これらの空白は、知識が存在しないことを意味しない。本ガイドラインは講演を素材としているため、まだ語られていないことは記事にならず、記事にならないことは書かれない。一覧は、次に何を聞くべきかの見取り図でもある。

ガイドライン作成のためのAgentic Publishing

ガイドラインは、Agentic Publishingシステムにより作成されたものである。Agentic Publishingとは、人間が指定した構造に沿って、AIエージェントが知識ベースから記事を選び、成果物を構成するプロセスである。

ガイドライン編集者は、章節の構成(見出しなど)をマークダウン形式で指定し、各章節の内容をYAML Front Matter Block形式で指定する。これは、各章節が何を記述し、何を記述しないかを指定するものである。

Agentic Publishingシステムは、以下のような特徴を備える。

  • AIエージェントが生成結果を多観点で検査し、その結果を人間が裁定する品質保証プロセス
  • 検査で発見された問題点を編集レシピに反映させ、以後の生成に活用する品質改善ループ
  • 知識ベースの成長を反映して再生成するLiving Documentとして運用可能
  • 成果物を版として凍結し、参照可能・追跡可能な出版物として公開可能

また、編集レシピとして、以下のようなファイルを管理している。

  • 構造:成果物としての文書が備える構造として、章節構造や各節に書く・書かない内容などを指定
  • エージェント指示(制作):知識ベースから選んだ記事を基にどのように書くかを指定
  • エージェント指示(校閲):書かれた文書をどのような観点で検査し、指摘を出すかを指定
  • 用語ファイル:表記揺れに対して使うべき表記やその意味などを指定

これは、素材(知識ベース)から料理(出版物)を作るノウハウを蓄積するようなものであり、生成ごとに品質が向上していくことが期待できる。

利用記事一覧(帰属表示)

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