はじめに

本講演は、江戸時代を対象とした大規模な空間データセットを、藩・村・都市・街道・海岸線という複数の階層にわたって構築する取り組みの紹介です。講演者は北本朝展氏(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター / 国立情報学研究所)で、複数の研究者・企業との共同研究として進められています。過去の地理情報への識別子・属性の付与や、表記揺れ・粒度の相違といった歴史データ特有の難しさに関心のある方に役立ちます。

背景:歴史ビッグデータと過去の地理情報の整備

この研究は「歴史ビッグデータ」、すなわち歴史的資料に含まれる情報を取り出して機械可読データを作り、ビッグデータとして解析しようという枠組みに位置づけられます。歴史的資料には、気候・地震・噴火・疫病などの自然科学的データと、経済・人口・政治・文化などの人文社会的データが膨大に蓄積されています。これらの構造化では「何がどこで起こったか」の「どこ」、すなわち位置情報が重要であり、本講演はこの「どこ」を整備する取り組みに焦点を当てています。

過去を扱うには、現代の地図ではなく当時の地理情報が欠かせません。江戸期の村名が記された歴史地図を重ねれば、ある場所が当時どの村と呼ばれていたかが分かり、地図の比較からは、現在は埋め立てられた地域がかつて海であったといった海岸線の変化も読み取れます。

なお本研究は、文部科学省「人文学・社会科学のDX化に向けた研究開発推進事業」のもとの DHコンソーシアムプロジェクト(DiHuCo) の一環で、CODHは地図・地誌類領域の人文DXを担当し、研究実践ハブでのユースケース開発やガイドライン執筆を進めています。

大規模空間データセット構築の方針

歴史的大規模空間データセットの構築は、大きく識別子(ID)の付与と基本属性の付与の二つから成ります。ID付与は、どのようなエンティティが存在するかを特定して固有のIDを割り当てる作業で、歴史的対象では「何を同じエンティティとみなすか」の判断が難しく、ここに多くの労力がかかります。基本属性の付与では、緯度・経度の位置情報を中心に、名称や呼ぶ範囲(粒度)、読み、石高などの基本統計を結びつけます。名称には表記揺れや粒度の相違がつきまとうため、その吸収も課題です。これらを軸に、四つのデータセットがオープンなコラボレーションによる構築という方法論のもとで整備されています。本講演では、藩ID・江戸近世村・江戸マップ・江戸期地理の四つが取り上げられました。

藩IDデータセット

藩IDデータセット は、江戸・明治時代の408藩に識別子を付与し、藩名と別名を定義したデータセットです。代表点への位置情報の付与や領分の可視化も行い、表記揺れの吸収やほかのデータとの連携を、IDを介して進められる点に特徴があります。

藩を数えること自体が難問です。江戸期から明治期の藩には政権による公式リストが存在せず、総数の確定は困難で、藩の定義そのものは歴史研究に属するため本研究では扱いません。そこで『藩史大事典』『角川新版日本史辞典』『岩波日本史辞典』などを比較して統合や分離を検討し、寛文4年(1664)から明治4年(1871)に存在した藩として408藩を特定しました。これも唯一の正解ではなく、本研究の判断です。

藩の呼称も公式には決まっていません。地名で呼ぶか家名で呼ぶかの二通りがあり、仙台藩(地名)と伊達藩(家名)のように、由緒ある大名家では家名で呼ばれることも多くあります。出羽・伊予・備中の三つがある松山藩のような同名藩の扱いも問題です。代表的な呼称は、J-STAGEの論文での使われ方やWikipediaの用例など現代の利用実態も参照して決め、薩摩・加賀・長州などを代表名としました。

この検索の副産物として、どの藩が注目されているかも見えてきました。別名をORでつないでJ-STAGEの論文数を検索し、同名藩は国名との組み合わせで比例配分したうえで、薩摩藩を100に正規化した「注目スコア」を算出しています。薩摩100に対し加賀93、長州73、仙台71、尾張59と続きます。検索は当初CiNiiも併用しましたが件数が少なく、傾向が食い違う際の判断が難しいためJ-STAGEに一本化しており、日本史の論文が多い機関リポジトリの紀要の扱いは今後の検討点として質疑で挙がりました。

位置情報としては、藩の代表点として居城や陣屋の位置を付与しています。城跡が残る有名な藩は問題ありませんが、一万石規模の小さな藩には所在が判然としないものもあり、精査が続いています。多くは日本歴史地名大系とリンクされ、居城などの情報をたどれます。藩の形は、居城の周囲にまとまるという素朴なイメージとは異なり、領域が複数に分かれ飛び地を持つ例(加賀藩・熊本藩・尾張藩など)が多く、単純には表現できないことが分かりました。

最大の利点は、表記揺れしていた藩名をIDで結合・統合できる点です。武鑑全集における寛政武鑑と安政武鑑の経時的な統合など、ほかのデータとのリンクも藩IDの導入で大幅に容易になりました。一方、江戸時代はそもそも藩が先にあるのではなく、大名家が先にあり、大名家が移動する場合もあるため、藩と大名家の関係は一対一ではありません。そこで、藩IDとは別に大名家IDが必要で、両者のリンクが求められます。さらに、当主の交代などのイベントをIDの変更として扱うなら、より複雑なID体系が必要です。

江戸近世村データセット

江戸近世村データセットは、村方すなわち江戸期の農村部の地理的データを扱うもので、二つのデータセットの統合から成ります。出発点は、平凡社『日本歴史地名大系』の地名項目をオープンデータとして公開した取り組みです。

『日本歴史地名大系』地名項目データセット は、地名項目に位置情報を加えて機械可読化したもので、江戸時代の村までさかのぼる80,502件を、CC BYライセンスで公開しています。これは出版社と協力した学術情報のオープン・クローズ戦略です。CODHが公開するのは事実に関する書き手に依存しない情報で、解釈に関わる記述部分は引き続きクローズドデータとしてジャパンナレッジ(有料)で提供されます。地名ページからその記述へリンクが張られ、オープンからクローズドへたどれる構造です。

もう一つの基盤が、本田謙一氏が作成した 幕末期近世村領域データセット で、幕末期の近世村66,581件の領域データと点データから成ります。境界は現代の農業集落境界データに由来し当時そのものではありませんが、当時の集落境界を近似的に表すと考えられています。石高は歴博が公開する旧高旧領取調帳データベースを用いています。

この二つを統合したのが 江戸近世村統合データセット で、80,502件と66,581件を名称の一致で突き合わせ、約56,000件を統合しました。ただし、一方では一つの村が他方では東西に分かれて粒度が異なる場合や、村名の表記が異なって対応づけられない場合など、統合できない例も見つかっています。粒度の相違や表記揺れ、どちらを正解とするかといった問題は歴史データでは一般的で、丁寧に進めるにはかなりの時間がかかると見込まれています。

江戸マップデータセット

江戸マップ は、29枚の古地図『江戸切絵図』から8,788ヶ所の地名を抽出してデータベース化したものです。現在の東京では当時の地名の多くが失われ、過去の文献の地名を現代の地図で探しても分かりません。そこで過去の地図から地名を取り出してデータ化しています。

位置の対応づけにはジオリファレンス(位置合わせ)を用います。過去の古地図を現在の地図に合わせて幾何変換する方法ですが、『江戸切絵図』は歪みが大きく、全体を一括で合わせると周辺ほど誤差が増す課題がありました。これに対し、抽出した一点一点をOpenStreetMapを背景地図として正しい位置へ移動させる作業を約8,000箇所すべてに行い、29枚を統合して、江戸全体の図を初めて表示できるようになりました。

この地図は、現代風デザインのWeb歴史地図 れきちず に重ねて表示されます。れきちずは株式会社MIERUNEが運営し(CC BY-NC-ND)、日本全国をシームレスに、ひらがな・英語表示にも対応して表示できます。過去の地図に過去の情報を載せると解釈が容易になります。海岸線沿いに並ぶ地名は現代地図では陸上に乗って意味が取りにくいのに対し、当時の地図なら海岸線まで地名があったことが分かり、商店の分布 も街道沿いに店が並んでいた様子が読み取れます。

こうした重ね合わせで、江戸の都市構造を俯瞰できるようになりました。寺社の分布を ヒートマップ表示 すると、江戸を取り巻くように寺社が分布していることが明瞭になり、同名で現在も同じ場所に存続する寺社が感覚的にはかなり多いことも分かってきました(具体的な割合は未算出)。

江戸期地理データセット

江戸期地理データセットは、街道や海岸線などの江戸期の地理的データを扱い、江戸末期海岸線/水域データセット、江戸主要街道データセット、「江戸切絵図」町家領域マップなどを含みます。海岸線データは、現在は埋め立てられて海が遠ざかった地域の江戸時代の海岸線を示します。町家領域マップは、人が多く住んだ町方の領域を地図上に表し、範囲に色を付けることで居住域を把握できます。これらはGeoJSON形式のオープンデータとして複数資料を参照しながら人手で構築されたものです。

現在進めている取り組みの一つが、街道ナンバリングと宿場町ナンバリングです。人や物資の移動経路を「あるIDから別のIDへ」というID間のリンクで表せれば構造化を効率化できるため、発想は既存の体系に倣っています。道(line)へのID付与は高速道路ナンバリングに倣い、五街道にR001〜R005、地域ごとの主要街道にR1XXからR9XXを与えます。点(point)へのID付与は駅ナンバリングに倣い、東海道最初の宿場町・品川宿をR001-001とするように、街道との組み合わせで宿場町に番号を与えます。

ただし街道にも時期による移設や経路の違いがあり、複数経路が想定されうるという論点が質疑で示されました。IDを与えつつ、説や時期に応じて複数の経路を割り当てられる柔軟な枠組みが望ましいという指摘で、ナンバリングにも公式の定義がなく呼称や経路がぶれるため、できるだけ柔軟に対応したいとされました。

今後の展望と課題

本講演の取り組みを通じて、江戸時代の多数の空間的エンティティを含むデータセットの構築は進みました。今後の展望として、オープンコラボレーションの展開と、構築データを活かす次の段階が示されました。

オープンコラボレーションは本研究の大きな特徴です。平凡社地図出版による『日本歴史地名大系』地名データのオープン化、株式会社MIERUNEによる「れきちず」地図データのオープン化のように、地理情報を扱う企業と共同してオープンデータを作っています。何をオープンにし何をクローズドにするか、ライセンスをどう設定するかを工夫して双方にメリットのある形を目指し、広く共有したうえで別のプラットフォームに統合して利用する流れも想定されています。

次の段階として重要なのが意味空間の構築です。多数のエンティティができたことを受け、エンティティ関係を主軸とした知識グラフと、機械学習を主軸としたベクトル埋め込みを組み合わせることが課題とされます。その先に構想されるのが「デジタル江戸」で、過去の世界を対象としたデジタルツイン=データ駆動型の実験環境に構造化データを投入し、江戸期の大規模空間データセットを一体的に活用することを目指す長期的な目標です。

講演情報

関連リンク


この記事は、講演記録を基に生成AIを利用して作成したユースケース記事です。