旧国・旧郡、近世村、藩、市区町村といった空間の単位は、時代とともに範囲も名称も変わる。ここで扱うのは、その変化をデータとしてどう表すかと、時代をまたいで同じ場所を指すことの難しさである。座標や投影法の選択は節「空間の表し方」(geo-coordinates)に、地名と識別子・典拠の関係は節「地名という接点」(geo-toponym)に委ねる。
過去へ遡るほど断片的になる空間情報
現代の空間情報基盤には地図など整備済みのものが多いが、過去に遡るほど未整備になり、データは時期や地域ごとに断片的になる。これを接続して統合することが、歴史的空間情報基盤の課題として位置づけられている [UC-013 §地図・地名・地誌——空間情報を扱う三つの単位]。この整理は、時間を扱うモデルそのものを述べたものではなく、以下の個別の事例が置かれる背景である。
時期の異なる単位を「同じもの」として束ねる
通時的なデータセットを作るときの出発点は、時期の異なる単位を同一のものとみなす基準を決めることである。国土数値情報のような時点ごとのデータをそのまま並べるだけでは、合併で範囲が変わった市区町村を一続きの存在として追えない。歴史的行政区域データセットは、時期の異なる市区町村どうしを「同じもの」として統合するために、概念としての市区町村に ID を付与している。八王子市には ID「13201A1968」が与えられ、合併で範囲が広がっても一つの市として扱われる。江戸から「東京府東京市(15区)」「同(35区)」「東京都特別区部(23区)」へと変遷する例でも、同じものは同じ、違うものは違うと区別して ID を付けている [UC-013 §歴史的行政区域データセット——市区町村IDの付与]。範囲が変わっても同じ ID を使うので、資料に現れた八王子市をこの ID に結びつけたうえで、資料の年代によって範囲が異なることを確かめられる [UC-033 §地名のデータセット:行政区域から近世村へ]。
この系列を過去へ延ばす作業は難航している。現状の網羅的な ID 付与は 1920 年以降の市区町村 16,729 件で、1919 年から 1889 年(市制及び町村制の成立年)への遡及と、明治から江戸への遡及が課題として残る。1889〜2006 年には行政界変遷データベースが使えるが、誤りが多く、部分的な利用が想定されている [UC-013 §歴史的行政区域データセット——市区町村IDの付与]。江戸時代に遡る際の主な情報源は『日本歴史地名大系』であり、その地名項目 80,502 件を機械可読化したデータセットが、通時的な統合 ID の足がかりになっている [UC-033 §地名のデータセット:行政区域から近世村へ]。
公式のリストがない単位を数える——藩
江戸時代の藩のように、そもそも「何を一つと数えるか」が決まっていない単位がある。藩は江戸時代に正式に定義された語ではなく、明治以降に使われた語である。公式のリストがないため総数の確定は難しく、厳密な定義は歴史研究そのものになるので、藩 ID データセットではそこに踏み込んでいない。複数の藩史事典を比較して統合と分離を検討し、寛文 4 年(1664)から明治 4 年(1871)に存在した藩として 408 藩を定めた。これも唯一の正解ではない [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化, UC-012 §藩IDデータセット]。
呼称にも公式の定義がなく、文献によってばらつく。「薩摩藩」と「鹿児島藩」のように地名と家名のどちらを使うかが分かれ、松山藩は出羽・伊予・備中に三つ存在する。代表名は、J-STAGE の論文での使われ方や Wikipedia の用例も参照して決められている [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化]。
藩の範囲そのものも単純ではない。位置は居城・陣屋を代表点として付与できるが、小さな藩の陣屋は痕跡が消えやすく、所在が分からない場合がある [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。領域は幕末期近世村データの領分から可視化できる。加賀藩・尾張藩の領分は大まかには二つの地域に分かれ、熊本藩には飛び地が多く、居城の周りにひとまとまりに広がる形ではない [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化, UC-012 §藩IDデータセット]。村は基本的に一つの領主に属するが、複数の領主を持つ村もあり、村と藩は多対多の関係にある [UC-010 §藩IDデータセットと村・藩の統合的な可視化]。
藩と大名家も一対一ではない。江戸時代に主だったのは藩ではなく大名家であり、大名家が移動する場合もある。そのため藩 ID とは別に大名家 ID が必要になる。当主交代などのイベントを ID で扱うには、さらに複雑な ID 体系が要る [UC-013 §藩IDデータセット——識別子の付与と研究動向の可視化, UC-012 §藩IDデータセット]。
粒度と表記の食い違いを突き合わせる——近世村
江戸時代の村では、二つの出典を名称の一致で突き合わせたときに、粒度と表記の食い違いが具体的に現れる。『日本歴史地名大系』地名項目データセット 80,502 件と、幕末期近世村領域データセット 66,581 件を照合すると、約 56,000 件が同じ村を指すと分かった [UC-013 §江戸時代の村のデータセット——統合の試みと課題]。残りには、一方では 1 村が他方では東西 2 村に分かれる粒度の相違や、表記揺れとは思えないほど村名が異なるものがある。表記揺れの一因には OCR 誤りも含まれ、どちらが正しいかを一件ずつ確かめる作業は大きな負担になると見込まれている [UC-013 §江戸時代の村のデータセット——統合の試みと課題, UC-012 §江戸近世村データセット]。
領域の側にも限界がある。幕末期近世村領域データセットの境界は、現代の農業集落境界データに由来する。現代の農業集落と江戸時代の村にはそれなりの連続性があるだろうという前提に立った代用であり、当時の境界そのものではなく近似にとどまる [UC-033 §地名のデータセット:行政区域から近世村へ, UC-010 §地名・村のデータセット]。
名称の異なる街道を同じものとして扱う
街道のように線で表される江戸期の対象にも、番号による識別が試みられている。文献によって街道の名称が異なっても、ID で管理すれば同じものとして扱えるので、人や物資の移動経路を ID 間のリンクで表現しやすくなる [UC-044 §地名・街道・宿場のデータセット, UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。番号の体系そのものは節「識別子とデータ引用」(open-identifier)に委ねる。ただし、宿場 ID の付与は進行中で、すべては済んでいない [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD]。街道にも時期による移設や経路の違いがあり、複数経路がありうる。そのため、ID を与えつつ、説や時期に応じて複数の経路を割り当てられる柔軟な枠組みが望ましいという指摘が、質疑で出ている [UC-012 §江戸期地理データセット]。
位置が定まらないときの曖昧さの表し方
歴史的な単位では、位置が一点に決まらない場合も多い。藩の陣屋のように候補地が複数あるとき、GeoLOD は Uber の H3 インデックスを使い、六角形で範囲を指定する。この ID は場所と六角形の大きさを一つの文字列で同時に指定するため、ID 自体が曖昧さのレベルを含む。おおよその位置しか分からない歴史地名に向いた表し方である [UC-033 §地名のデータセット:藩・街道・宿場とGeoLOD, UC-013 §地名情報処理のサービス群——GeoNLP・ジオコーダー・GeoLOD]。
時代による住所の変化と照合の難しさ
通時的な単位の同定は、小規模な時間差でも困難になる。1923 年の関東大震災の死亡者調査票の住所を位置情報に変換する事例では、震災後の区画整理で町名が大きく変わったため、現代の住所表記との対応づけが難しく、現代の住所はあまり参考にならなかった。原票の表記にも揺れがあり、「本所区三笠11」が正式には「本所區本所三笠町」である例、「常磐」と「常盤」のような誤字、記載の区と実際の区が異なる例がある。「横川町」が本所・中ノ郷・柳島のどれか区別がつかない、一意に決まらない町名もあった [UC-032 §大正時代の住所をジオコーディングする課題]。参照するデータセットの基準年にも限界がある。1907 年基準のデータセットには、大正 2 年(1913)に成立した芝区日出町が含まれず、1907 年と 1923 年のあいだで街区や住所が変化した地域への考慮も手つかずになっている [UC-032 §変換の限界と今後の課題]。
既存の通時的データセットを再利用するときの障壁
過去に作られた通時的データセットは、そのままでは再利用しにくい場合がある。講演者は旧国・旧郡境界データセットなどの再利用に関連して、次の四点を挙げている。
- 技術的制約のある時代に作られたため、現代の基準では精度や統合に問題がある場合がある
- データセットが公開されても、サービス展開やプラットフォーム化に至らなかった
- 修正手順が確立されておらず、誤りの指摘に対応しにくい
- 紙資料のデジタル化・翻刻(OCR)で誤りが混入する
[UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]
行政界変遷データベースは精度の問題でそのままでは使えない例である [UC-013 §歴史的空間情報基盤の課題と今後の展望]。同じ場所の ID 化では、明治期と江戸期で国・郡の分け方が異なるため、旧国・旧郡境界データセットに対して CODH 側で新たに ID を付与し直している [UC-013 §既存データセットの活用と過去データの課題]。一方、別プロジェクトで埋もれていた旧東京市 15 区住所データセットは、利用許諾を得て再整備された例として挙げられている [UC-013 §歴史的空間情報基盤の課題と今後の展望]。