文化遺産をめぐる研究は、資料の所在地と研究者の所在地と遺跡の所在地が一致しない状態から出発することが多い。ドイツ=トルファン探検隊(1902〜1914年)が撮影した約1500枚のガラス乾板はベルリン州立アジア美術館に保存されているが、遺跡そのものは中国・新疆のトルファン盆地にあり、研究者は日本・中国・ヨーロッパに散らばっている [UC-008 §ドイツ=トルファン探検隊の古写真と遺跡同定の課題]。何が、どこに、いつあったのかを再構成することが、国際協力の実質的な内容になる。

分散した資料を前提とした協力体制の組み方

ドイツ=トルファン探検隊の写真は、何をどこで撮影したかという探検隊側の記録がほぼ失われている。刊行された報告書にも地図がなく、手書きの平面図のみで項目分けも不十分なため、個々の写真がどの遺跡に対応するのかを特定することがきわめて難しい [UC-008 §ドイツ=トルファン探検隊の古写真と遺跡同定の課題]。

この状況に対して組まれた体制は、日本・中国・ヨーロッパの研究者がそれぞれ異なる資料と文脈を持ち寄る構造だった。ベルリン州立アジア美術館は2009年以降に古写真の整理を始め、2010年前後からデジタル化を進めて、大英図書館のIDP(国際敦煌項目)やベルリン州立博物館のアーカイブにもアップロードした [UC-008 §ベルリン州立アジア美術館との協力と古写真の整理]。現地ではトルファン地区文物局が協力し、2017年からドイツ隊の調査地の捜索と同定が始まっている [UC-008 §ベルリン州立アジア美術館との協力と古写真の整理]。その手前には、地図・遺構平面図・衛星写真・一部の古写真を組み合わせて高昌故城の大部分の遺構を同定した先行研究があり、この方法がベルリンとの協力へつながった [UC-008 §古写真を用いた遺跡同定の方法論]。

国際協力が目的ではなく方法として必要になる場面もある。Tempel T'の壁画の位置の特定では、ドイツ隊の写真だけでは撮影範囲が足りなかった。より広い範囲を撮影していたロシアの探検隊の写真と照合し、壁面の崩れた箇所など細部を突き合わせて対応点を見いだしている [UC-008 §壁画の位置の特定(Tempel T')]。同じ遺跡を別の探検隊が別の角度から記録していたという事実が、単独の資料群では解けない問いを解く鍵になった。

災害による喪失に対しては、国境を越えた資料の召集が事後的な復元の前提になる。イラン・バム遺跡では2003年12月の地震の5日後にウェブサイトを開設し、世界に地震前の写真の提供を呼びかけた [UC-020 §地震で全壊したバム遺跡と復元プロジェクト]。取り組みは、ディジタル・シルクロード・プロジェクトの中でテヘラン大学の研究者を中心に、イランの共同研究者や国立情報学研究所の関係者とともに進められている [UC-020 §地震で全壊したバム遺跡と復元プロジェクト]。復元には衛星画像・写真・平面図・地形データ・記録・遺物・人々の記憶といった種類の異なるデータの統合が必要で、それでも欠ける情報は残る [UC-020 §実測と推定:2種類の3次元モデル]。現存しない対象を記録するには、どの単一の機関も持ちえない資料の集合が要る。復元モデルの技術的詳細については「三次元の計測と復元」を参照されたい。

現地調査が直面する多層の障壁

現地調査は研究上の問題だけでなく、政治的・環境的・運用上の制約を同時に抱える。

ゼロコロナ政策の直後という時期には、表向きは受け入れ可能とされながら外国人の調査が実質的に難しい状況が続いた。最終的には北京大学の支援を得て調査が実現している [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。現地政府・現地大学・海外機関の関係が、調査の可否そのものを左右する構造がここに表れている。

環境面では、昼間の気温がおよそ50度に達するため、調査できるのは夕方6時から夜10時の時間帯に限られた [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。ツールの運用でも、アプリのログイン認証に用いるGoogleのサインインが中国の環境では使いにくく、位置情報については中国版の地図サービスを併用した [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。これらは「現地調査」という言葉の陰に隠れた多層の障壁であり、ツールの機能設計だけでは解消できない。

「すでに失われた」という前提の誤り

ヨーロッパのシルクロード探検隊が調査した遺跡は、大規模で現在もよく知られているものを除けば、すでに失われた、あるいは破壊されたと長らく説明されてきた。そのため、調査された遺跡が今も残っているとは、ほとんど誰も考えていなかった [UC-008 §ドイツ=トルファン探検隊の古写真と遺跡同定の課題]。著名な大きな遺跡でも、現地の人から「もう何も残っていない」と言われながら、実際には残っていたという場面があった [UC-008 §報告書と現地記録の食い違い]。

遺跡が残っていても、景観が激変している場合には別の問題が生じる。勝金口(Sengim)では、一帯がぶどう畑になっていた。100年前と比べて地域の人口が約10倍に増え、食料生産のための土地転換が進んだ結果であり、手前では高速道路の工事も進んでいる。次に訪れたときには同じ写真を撮れなくなる可能性が高い状況だった [UC-008 §景観が激変した遺跡(勝金口)]。所在地が分からないために発掘ができない遺跡もあり、写真による位置の確定は、景観が消える前に手がかりを押さえる作業になる [UC-008 §景観が激変した遺跡(勝金口)]。

現地の記録との食い違いは、写真を突き合わせて初めて議論の俎上に載る。ドイツ隊の書籍で仏教寺院(5〜7世紀とされるが、年代の記述には揺れがある)とされた地点が、現在の現地の記録では19世紀の建物とされていた。違うと言葉で説明しても理解を得るのは難しく、証拠となる写真を示すしかない [UC-008 §報告書と現地記録の食い違い]。古写真による遺跡同定の方法論は「写真という資料」を参照されたい。

記録を誰に返すか

資料が持ち出されて100年以上が経つ。その記録を現代の現地調査に使うとき、調査者は現地の文物局に行きたい場所を依頼し、案内を受け、撮影した写真をデータとして持ち帰る。一方、プリントアウトして持っていった古写真は、現地の人が喜んで持ち帰ってしまうため、写真はスマートフォンの中でしか見られない状態で運用されたという [UC-008 §メモリーグラフを用いた現地調査]。この小さな出来事は、記録への関心と、それを手元に置きたいという感覚が現地の人々にもあることを示している。

調査の成果としては、各地の文物局・文管処・研究所との協力で、ドイツ隊が具体的にどこを調査したのかが判明した。ベルリン州立アジア美術館との協力で、調査の基礎的データを整備する取り組みも始まっている [UC-008 §調査の成果と今後]。ただし、この事例から読み取れるのは協力体制の形までである。記録の返還をどう判断するか、その権原をどう考えるかという議論は、この事例からは読み取れない。「誰の遺産か」「記録を誰に返すか」という問いは調査の実践が提起しているものの、答えとして定式化された議論は、紐づく記事にまだ蓄積されていない。