規模を変えることは、問いの種類を変える。一点を深く読む精読では届かない問いに、大量の資料を集めて集約する遠読が答えることがあり、その逆もある。

集約することで見えてくるもの

絵本や絵巻のデジタル画像から顔の部分だけを切り抜いて集めた「顔貌コレクション(顔コレ)」は、この考え方の具体例である。切り抜いた顔に「山伏」といったメタデータを付与し、網羅的なデータセットを作って並べることで、顔の様式を比較する。一点ずつ見ていては気づかない様式の傾向が、規模を上げて集約することで見えてくる [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]。

歴史記録からのデータ収集も同じ論理に立つ。日記からの気象記録、被害記録からの地震・噴火情報、感染症の記録、米相場、村ごとの人口——これらは一点の資料を読んでも断片にすぎないが、大量に集めて機械可読データにすることで、分布や変化として見える。こうした立場が「歴史ビッグデータ」という語で指される [UC-011 §2. 「歴史ビッグデータ」という課題]。Time Machine Europe が「Big Data of the Past(過去のビッグデータ)」を掲げ、Living with Machines が大量のデジタル化資料からAIで産業革命の影響を分析しようとする試みも、この系譜に位置する [UC-011 §2. 「歴史ビッグデータ」という課題]。

通時的に写真を並べる場合も、同じ問いの構造を持つ。同一構図の写真を継続的に集めて並べると、一枚ずつ眺めていては見逃してしまう変化の痕跡が浮かび上がる。画素レベルで比較すると、人が気づかないような微細な変化が明らかになることがある [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。

集約することで失われるもの

規模を上げることには代償がある。北本朝展氏は、単にデジタルデータを使うことと、デジタルの利点を活用する方向に研究手法そのものを進化させることとのあいだに「大きな違い」があると述べており [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]、この違いは集約と精読の得失に直結する。集約は共通する様式を取り出すが、資料の固有の文脈——誰が、どこで、どのような意図で書いたか——は集約の過程で薄れる。

写真の場合、景観を「読む」ためには「その場所についての知識」が必要だという指摘が示唆的である。場所をよく知っていれば何をどこから撮ればよいかを判断できるが、知らなければ画素の変化を見ても理解に時間がかかる [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。集約によって得られる情報と、精読的な文脈理解によってはじめて解釈できる情報は、別の種類のものである。

古地図を大量に処理するとき、位置合わせのために幾何補正を行うと地図上の文字が読めなくなるという問題が起きる。全体の位置精度を上げるために形を歪めると、個々の表現が失われるのである [UC-011 §6. 古地図の位置合わせ手法とソフトウェア]。この得失の構造については「時間をもつ空間」を参照。

遠読と精読は対立しない

データ駆動型人文学は、データの共有やエビデンスに基づく検証という新しい文化を人文学に導入することも課題だとされる [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]。照合可能な根拠を示せるという点は、遠読が持つ固有の強みである。

一方、一度作ったデータセットが「さまざまな目的に使える」という点は慎重に読む必要がある。顔コレが美術史研究・顔認識研究・GANによる生成研究など複数の用途に使えるのは事実だが [UC-040 §顔貌コレクションとデータ駆動型人文学]、データセットを作る際の分類や切り取りの選択が、後から問える問いの範囲を規定している。この点は「データモデリングと構造化」で扱われる。

「どこから撮ればよいかを判断できる」というような現場の判断は、データの量では補えない。都市景観の分析を「digitally-enabled criticism」と呼ぶ立場は、デジタルの規模的処理と批判的読解を切り離さず、技術的な手法を批評的な実践の道具として位置づける [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。遠読と精読は対立するものではなく、どちらを先にするかという順序の問題でもない。