AI を研究や教育に組み込むと、技術の問題にとどまらず、権利、真贋、言語や計算資源の偏り、そして何を人文学として教えるかという問いが一度に立ち上がる。本節は、そのうち法・倫理・社会的な非対称と、学生が AI を使うときに身につけるべきことに絞って整理する。データを公開する側の権利処理とライセンスの選択は「ライセンスの選び方と権利処理」で、研究者が責任を負う関与の類型は「エージェントと研究の作法」で扱う。

学習される側の不安と権利の宙吊り

シンポジウム参加者へのアンケートでは、入力したデータの行方が繰り返し懸念として挙がっている。入力内容が学習されること、誰かの文章がそのまま出力に現れること、「学習されない」権利を守る仕組みが分からないことが、問題だと思うこと・気がかりなこととして書かれた。機密情報を含まないファイルであっても、そのドキュメントを使ってよいか躊躇するという記述もある [Issues-002 §論点4:入力したデータの行方]。組織内で AI 利用への理解度に差があると、個人情報や機密情報が漏れるリスクが高まるという指摘もあった [Issues-002 §論点4:入力したデータの行方]。

学習データの側から問う回答は、問題を権利の次元に置いている。AI の性能を上げるには人文学の資料を学習させる必要があるが、その過程が権利をないがしろにしたり、労働力や環境資源を搾取したりしない、持続的で協働的な学習システムが求められるという [Issues-002 §論点4:入力したデータの行方]。生成 AI サービスがリポジトリへ大量にアクセスする状況を取り上げた回答は、学術データの公開とそのコストの工面を検討すべきだとしている [Issues-002 §論点4:入力したデータの行方]。公開すれば学習に取り込まれ、公開のコストは公開した側が負うという構図が、ここで問題になっている。

学習データに入っていないものの偏り

AI が何を見つけさせ、何を見つけさせないかは、学習データの偏りに左右される。アンケートの回答には、年代や地域によって回答や成果に偏りが出るという指摘があった。偏りが特に出るのは、年代では戦後から1960年代、地域では非英語圏だという。同じ回答者は、複数の AI モデルを併用すれば本当に批判的な回答が得られるのかを問い、現在普及しているモデルの多くが英語圏で開発され、学習されていることを懸念している [Issues-002 §論点2:出力の確からしさの確認]。

出力の偏りは、利用者が気づきにくい形でも現れる。尋ねる事項に関する知識がなければ出力をそのまま信じてしまうことがあり得るという記述や、AI によってスタンダードが変更されていき、誤った答えが正当化されてしまうのではないかという心配が書かれている [Issues-002 §論点2:出力の確からしさの確認]。学習データに入っていないものは出力にも現れないので、その不在は出力を眺めているだけでは見えない。専門家が出力を評価するという工程の意味は、この点にも及ぶ。

計算資源と費用の非対称

AI を使う費用の負担は、研究者のあいだの格差として現れている。アンケートでは、無料枠の利用可能枠がすぐに尽きること、月払いのプランが多く研究費で執行しにくいこと、研究費のない人が有料アカウントのために私費を投じるかどうか悩むことが挙げられた。気がかりなこととしては、将来の使用料金の引き上げ、学術ジャーナルの高額な購読料と同じ問題が AI でも起きるのではないかということ、経済的利益が海外に流れていくこと、課金が正義となることが書かれている。いろいろな AI を試したいが、課金しないと本当のところは分からず、かといって無制限に課金する経済力はないという回答もある [Issues-002 §論点5:利用料の負担]。

計算環境を自前で用意する選択も、社会的な条件に左右される。SPReAD 1000 の採択研究では、未公開の学術調査写真、機微情報や著作権で保護された資料を扱う国際法の研究、個人情報を扱う歴史地理の研究が、手元のローカル環境で LLM を動かす計画を立てていた。外部に送り出さずに解析できる環境が目指されているが、ローカルで実行できるモデルにどのような選択肢があるのかが課題として挙げられている [Issues-004 §論点1:AIを使う研究環境の整え方]。アンケートには、日本の学術界全体で使える信頼性の高いクラウドがなく、閉じた空間で日本独自の学術データが蓄積されるとよいという意見や、日本の研究が海外企業に収集されていくことへの懸念も見られた [Issues-002 §論点4:入力したデータの行方]。

誰がどこまでを担ったかが見えにくくなる

AI を使うと、研究のどこまでが AI の提案や分析で、どこからが人間の判断や選択なのかが見えにくくなる。アンケートでは、論文や学会報告で AI のリファレンスをどこまでとし、オリジナルをどの部分とするかの判断に困るという記述があった。この見えにくさを懸念する回答は、AI の出力をなぜ採用し、何を採用しなかったのかを記録・検証できる仕組みが必要だと述べ、人間の判断や独自性を保ったままの活用方法を知りたいとしている [Issues-002 §論点3:人間が担う範囲の見極め]。論文作成には使えても論文査読には利用できないことを問題とする回答もある [Issues-002 §論点3:人間が担う範囲の見極め]。真贋の判定という観点から見ると、これらの記述は、出力の来歴を残す仕組みが利用者の側から求められていることを示している。ただし、本節の記事群には、生成物や資料の真贋を技術的に判定する方法を論じたものは含まれていない。

学生が AI を使うとき、何を身につけるべきか

教育の場では、AI は学習の入口を広げる一方で、省略への誘惑も生む。赤間氏は、この2年間で学生が技術を習得してから研究に入るのではなく、研究の途中で必要な道具を AI とともに組み立てるようになったと述べる。以前は、プログラミング言語やデータベース、統計処理、画像処理をある程度習得してから研究課題に取りかかる必要があり、問いに到達する前に挫折する学生もいた。現在は、生成 AI との対話でコードを作り、エラーを説明させ、必要なツールを組み合わせられる。技術は研究への入場資格ではなく、研究の途中で獲得し組み替える資源になったという [UC-036 §生成AIによる教育現場の変化]。そのうえで赤間氏は、資料批判や文脈理解といった人文学の強みを持つ研究者が、AI によってデータや計算の能力を効率的に駆使できるようになったらどうなるかと問いかけている [UC-036 §生成AIによる教育現場の変化]。

アンケートには、省略の側の懸念も書かれている。学生が生成 AI を使うこと自体は問題ないが、一部の学生は専門知識を習得する労力を省くために使いたがるという記述や、学生のレポートの劣化が甚だしいという記述がある [Issues-002 §論点3:人間が担う範囲の見極め]。身につけた「技術」が意味をなくして「問いを立てること」だけが残るので、真の研究者しか生き残れないという感覚を述べた回答もある [Issues-002 §論点3:人間が担う範囲の見極め]。回り道をする面白さに気づく機会を失いかねないが、これは程度問題で、先輩たちも自分たちを見て同じことを思っただろうという留保もあわせて書かれている [Issues-002 §論点3:人間が担う範囲の見極め]。

学生が身につけるべきことの核は、記事群からは次のように読み取れる。第一に、出力を評価する能力である。北本氏は、人文学の主体性を保つ条件として、AI への丸投げではなく的確な指示と対話のコントロールが必要であること、自分たちの研究に適した AI を開発する能力や、AI の出力を批判的に評価する能力を育成できるかを挙げている [UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]。アンケートでも、尋ねる事項の知識がなければ出力を信じてしまうという懸念が書かれており、評価の足場となる専門知識を学生が手放さないことが教育の課題になる。第二に、AI の出力をなぜ採用し何を採用しなかったかを記録する習慣である。AI と人間の判断の境界が見えにくくなるという懸念への、利用者の側の対処になる。第三に、社会との接続である。赤間氏は、研究活動の主体は人間であり、AI が研究する時代に入ったわけではないと明確に述べたうえで、人文学研究の多くは社会とのつながりを条件としないからこそ成立してきたのかもしれないと留保する。社会とつながる手段が簡単に獲得できるようになれば、そこで何かが始まる。Agentic DH の意義は社会とのつながりをつくる手法を支援するところにあり、人文学のイノベーションはそこにあるのではないか、という見立てである [UC-036 §Agentic DHにおける研究行為の再配置]。

教える側に求められること

教えることの中身も変わる。アンケートには、教育の現場にどのように取り組んでいくべきかが気になるという記述や、AI 利用に関する教育を求める記述があった [Issues-002 §論点3:人間が担う範囲の見極め]。AI 利用の教育を求める声は、使い方の領域にも出ている。エージェントを協調させて作業させる方法を尋ねる回答は、プログラマやエンジニア向けの情報は手に入りやすいが、もっと一般的なタスクでの使い方の勘どころが知りたいと続けている [Issues-002 §論点1:AIの使い方]。

SPReAD 1000 の採択研究では、求められる支援が知識面・技術面・制度面に分けて整理されている。知識面では、情報学の基礎やモデル選択に関する助言、導入段階に応じた情報とメンターが挙がり、身近に相談相手のいない研究者でも AI 導入を始めやすくするための提案がなされた [Issues-004 §論点1:AIを使う研究環境の整え方]。研究者間の AI に関する知識や経験の差が支援の背景として挙げられていることからも [Issues-004 §まとめ]、教える側の仕事には、利用の技法を伝えることに加え、こうした差を埋める伴走も含まれていく。博士課程の指導やキャリアパスの変化については、「エージェントと研究の作法」で扱う。