AIが自律的に作業を進めるようになったとき、研究者の役割は変わるのか、それとも消えるのか。北本朝展氏が「Agentic DH」と名付けた議論の核心は、この問いへの答えを探ることにある。[UC-035 §はじめに]

人間とAIの関わり方の三類型

人間とAIの関わり方には段階がある。北本氏はこれを三つの言い方で整理する。[UC-035 §人間とAIの関わり方の三つの類型と「指揮者」という研究者像]

Human-in-the-loop は、一つ一つの作業を指示して確認するやり方で、マイクロマネジメント(micromanagement)にあたる。Human-on-the-loop は、方向を示して委ね、結果を確認するやり方で、権限移譲(delegation)にあたる。Human-out-of-the-loop は、出てきた結果をそのまま使う丸投げ(abdication)にあたる。この順に人の関与は減る。AIができることが増えるにつれ、in-the-loop から on-the-loop へ移っていくというのが北本氏の見立てである。ただし人文学では、丸投げにあたる Human-out-of-the-loop はあまり成立しないのではないか、とも述べている。[UC-035 §人間とAIの関わり方の三つの類型と「指揮者」という研究者像]

この三類型は本節が本文書における定義箇所であり、他節はここを参照する。

研究者が「指揮者」になるとはどういうことか

三類型を踏まえて示されるのが、研究者は AIの「指揮者」であるという研究者像だ。指揮者は個々の楽器を弾けないかもしれないが、全体の音がどうあるべきかを理解し、全体として良い音楽を作り出す責任を負う。研究者も、個別の工程は AI に委譲しつつ、研究の全体を成功させ説明する責任を保持するという整理である。[UC-035 §人間とAIの関わり方の三つの類型と「指揮者」という研究者像]

指揮者像が含意するのは、権限の委譲と責任の保持が同時に成り立つという構造である。北本氏は、人文学の主体性を保つために必要なこととして、AIへの丸投げではなく的確な指示と対話のコントロール、そして AI の出力を批判的に評価する能力の育成を挙げている。[UC-035 §AI for Humanitiesに向けて] 指揮者はオーケストラを指揮しながら演奏の責任を負うように、研究者は AI が生成したものを批判的に評価しながら研究成果に責任を負う。エージェントに作業を委ねることは、その作業の帰結から手を引くことではない。

また、自分たちの研究に適した AI を開発する能力——すなわち AI 世界の内側に入り、AI が進化する方向に影響を与えること——も、指揮者としての研究者に求められる水準として北本氏は言及している。[UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]

著者性と査読が揺らぐ

エージェントが研究の実質的な部分を担うようになると、著者性の根拠が問われる。研究者のプロンプトには独自性があり、検証も行うが、それが著者性の「根拠」になるのかには疑問が残ると北本氏は述べる。[UC-035 §学術システムにかかるストレスと著者性の問い]

数学者の Gowers 氏は、AI 生成と人間の検証による成果を著者のいない論文として投稿できないかと考えたが、プレプリントサーバーの arXiv は条件を満たさなかったという。[UC-035 §学術システムにかかるストレスと著者性の問い] 人文学では人手による丹念な作業を著者性の根拠としてきたため、AI 支援による成果の評価は特に難しくなる可能性があると北本氏は指摘する。

査読の側にも圧力がかかっている。論文の「生産性」が向上して大量投稿が可能になり、質の低下も重なって、人間が査読するシステムが危機的な状況にある。機械学習の学会 NeurIPS でも AI を使ったレビューの実験が始まっている。[UC-035 §学術システムにかかるストレスと著者性の問い] AI が書き、AI がレビューする時代に学問の信頼性をどう確保するかが、未解決の問題として提起されている。

博士課程の指導とキャリアパスへの波及

AI が比較的取り組みやすい問題を解ける段階になると、研究を始めたばかりの博士課程の学生に取り組みやすい問題を与えるという指導の常道は選べなくなる——これは Gowers 氏のブログで指摘された論点であり、北本氏も引いている。[UC-043 §Agentic DHという視点]

数学研究に入ろうとする人への影響が特に大きく、自分の名前を定理に残せる時代は終わりつつあるかもしれないとも論じられている。[UC-035 §数学研究で進むAI for Science] これは数学に限らず、AIが担える領域で先行経験を積みながらキャリアを形成してきた従来の道筋を、研究の多くの分野で問い直す。学術システムの大変革は人材育成やキャリアパス、教育にも大きく影響するため、いまから対応を考えるべきだと北本氏は述べる。[UC-035 §AI for Humanitiesに向けて]

一方で、世代差という論点も提示されている。デジタル化を推進してきた研究者にとって、AI 化への転回は方向の切り替えを要する。しかし最初からデジタル環境で研究を始めた人——とりわけ若い世代——は、アナログからデジタルへの変化を経験しておらず、転回しなくても自然に AI 化に進めるため、むしろ有利な面があるという。デジタル化を経由せず AI 化を進める新たな研究の可能性も開けると北本氏は述べる。[UC-035 §Agentic DHが込めたもう一つの意味]

デジタル化からAI化への転回という構造的変化

これまでの DH はアナログとデジタルの軸、すなわち計算可能性とアクセシビリティをどう高めるかという問いを扱ってきた。いま起きているのは人間と AI の軸での変化であり、エージェンシーを人間と AI のあいだでどう分担するかという配分の問題である。AI 化が一方向ではない点が、デジタル化との違いだと北本氏は整理する。[UC-035 §Agentic DHが込めたもう一つの意味]

「指揮者」という研究者像は、この変化に対する一つの答えだ。AI に権限を委譲しながら研究責任を保持し、出力を批判的に評価する能力を維持する——この構造が成り立つとき、研究者は Human-out-of-the-loop に陥らず、Human-on-the-loop の立場を保てる。Agentic DH という言葉には、AI エージェントを使う DH 研究という意味に加えて、主体性(agency)を人文学の側が保つという意味も込められている。[UC-035 §Agentic DHが込めたもう一つの意味]