研究を専門家の外へ開くとは、成果を公開することにとどまらず、問いを立てる人、方法を組み立てる人、成果を検証する人を専門家の外にも広げることを含みます。以下では、開いたときに研究の側が何に変わるかを、問い・著者・専門性の三点から整理します。

市民が問いを立てる側に回る

公開された資料を市民が受け取るだけの関係と、市民が自ら問いを立てる関係とでは、研究の構図が異なります。デジタル・パブリック・ヒューマニティーズは、パブリック・ヒューマニティーズに単にデジタルを追加したものではありません。AI による変革によって、市民研究者が専門家の成果を受け取るだけでなく、自ら問いを立て、独自の知的活動を行い、成果を社会に返すことを可能にする構想として提唱されています [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。この構想では、AI は専門家の代替ではなく、市民が知の生産に参加するための足場と位置づけられています [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。

この構想の前提は、技術の習得が研究に入る条件でなくなったことです。教育現場で学生に起きたその変化は、一般市民にも起こり得ると考えられています [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。変化そのものの詳細は「AI 時代の研究方法」を参照してください。本節の関心は、入場資格が外れたことで人文学の素養を持つ人が専門家の外にも現れ得て、誰が問いを立てられるかが広がるという波及にあります。

参加が理解を変える

専門家の外へ開く形は、成果の受け手を増やすことだけではありません。研究の手順の一部に市民が加わる形もあります。同一構図の写真を画素レベルで比較すると、人が気づかないような微細な変化が明らかになることがあります。これは写真を研究する人だけでなく、撮影に参加する人にとってもユニークな体験で、何が変わり、何が変わっていないかを実感を伴って理解できるとされています [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。この活動は、多くの人が自分のスマートフォンで気軽に参加できるコミュニティアーカイブの一環として進められています。「スマホで三条 まちなみの変遷発見ラリー」のような市民による活動として、写真が活用されています [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。ここでの参加者は、研究資料を眺めるのではなく、資料を生み出す側に立ち、その過程で景観の見え方を学びます。

ただし、景観をうまく読み取る技術は、その場所や景観についての知識に依存します。場所をよく知っていれば、どこから撮ればよいかを容易に判断できますが、知らなければ理解に時間がかかります [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。参加の入口が広がっても、読み取りの深さは土地についての知識に左右されます。専門家の外に開くことは、知識の差をなくすのではなく、その差が成果に現れる場を増やすことでもあります。

誰が著者になるか

開いた研究では、成果の著者が誰かという問いが避けられません。市民が知の生産に参加できるようになっても、大学や博物館の役割が小さくなるわけではないとされています [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。市民が研究の主体になる場合、成果は専門家に帰属するものとして固定されません。市民自身が問いを立て、成果を社会に返す側に回ります [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。AI を使った研究での著者性・責任・評価の揺らぎは、「AI 時代の研究方法」を参照してください。参加者のクレジットの配分といった運営上の取り決めは、本節の範囲を超えます。

専門性はどこに残るか

開くことで専門性が不要になるわけではなく、専門性の置き場所が変わります。大学や博物館に求められるのは、信頼できるデータとメタデータを整備し、学び方を提供し、成果を検証し、権利やプライバシーを守り、専門家と市民が対話する場を作ることだとされています [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。専門家は成果を一方的に届ける立場から、市民の研究が成り立つ条件を整える立場へ移ります。

これは、アクセスの開放だけではなく研究する能力と責任を社会に開くことであり、Agentic DH 時代の公共性だと表現されています [UC-036 §市民に開かれる人文学とその条件]。同様に、Agentic DH の時代は人文学が弱くなる時代ではなく、人文学の関わりが社会の中で再び広がる時代だという期待も述べられています [UC-036 §デザイン・アート学部と文化創成学]。

開くことが研究の質に返ってくる筋道

開くことは、研究の側にも変化をもたらします。現在の人文学研究の多くは社会とのつながりを条件としないからこそ成立しているのかもしれず、その意味で人文学者は社会とつながるという手段を拒絶してきた、あるいは煩わしいと考えてきたのではないかという問いが立てられています [UC-036 §Agentic DHにおける研究行為の再配置]。その手段が簡単に獲得できるようになれば何かが始まり、人文学のイノベーションは社会とのつながりをつくる手法を支援するところにあるのではないかという見立てが示されています [UC-036 §Agentic DHにおける研究行為の再配置]。

具体例として、ARC が収蔵した『酒呑童子絵巻』は、修復とデジタル化から展覧会、コンテンツ化、学生の指導へと展開しました。これは、研究素材と研究活動と社会を結びつける実例として挙げられています [UC-036 §研究成果を社会につなぐ:酒呑童子絵巻とARCの展開]。絵巻の首が飛ぶ場面を AI で動かしたプロモーション映像は、研究活動ではないと断られたうえで、社会との接点を作る着想として意外に評判が良かったと紹介されています [UC-036 §研究成果を社会につなぐ:酒呑童子絵巻とARCの展開]。

筋道としては、開くことで資料の読み方や成果の使われ方が増え、その応答が研究の素材と方法を組み替えます。写真の例では、参加者が同一構図の写真を撮ることで、微細な変化を実感を伴って理解でき、場所の知識の有無が読み取りの深さを左右することが見えてきます [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。視覚資料を空間的な文脈の中で解釈する営みは、新しい技術やスキルを要するもので、資料の価値や意味を批判的に読み解く「digitally-enabled criticism」と呼ばれています [UC-016 §景観を「読む」ための新しい技術]。開かれた場での読みが、批判的な読解の技術を鍛え直す契機になるとも言えます。